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【日本を象徴する白亜の城】姫路城【日本(兵庫県)・世界文化遺産・1993年・(ⅰ)(ⅳ)】

2022年9月24日

姫路城
*本ページはプロモーションが含まれています。

はじめに

日本の城を象徴する姫路城。
数々の時代劇ロケーションの舞台となり、江戸城天守閣が存在しない現在では、姫路城天守閣が撮影に使われています。
今回は姫路城をみていきましょう。

✔︎秀吉や官兵衛が関わった姫路城の歴史がわかります。
✔︎地形を生かした姫路城の特性がわかります。
✔︎姫路城の城郭建築の見どころがわかります。
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■姫路城の概要

姫路城は、兵庫県姫路市にある日本の城。
別名は白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)
江戸時代初期に建てられた天守や櫓などの主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定、国の特別史跡に指定されています。
1993(平成5)年、奈良の法隆寺とともに、日本で初のユネスコ世界文化遺産に登録されたほか、日本100名城にも選定されています。

登録基準は以下のとおりです。
(i) 人間の創造的才能を表す傑作である。
(ⅳ) 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。

■姫路城の歴史

◉南北朝時代:赤松円心、姫路城の原型をつくる

赤松則村(円心。1277〜1350年))

赤松則村(円心。1277〜1350年)

1333(元弘3)年、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒を掲げる元弘の乱にて、護良親王の命により播磨国守護・赤松則村(円心。1277〜1350年)が挙兵しました。
上洛途中の姫山(姫丘、日女道丘)に砦をつくり、それが姫路城の原型となります。
続く南北朝の争乱が続く中、足利尊氏に呼応した則村は再度挙兵。
1346(南朝:正平元、北朝:貞和2)年、次男・赤松貞範が姫山に本格的に築城しました。

◉室町時代:赤松氏、嘉吉の乱で失脚

山名持豊(宗全。1404〜1473年)。応仁の乱では西軍総大将となる。出典:国立国会図書館デジタルコレクション「本朝百将伝」

山名持豊(宗全。1404〜1473年)。応仁の乱では西軍総大将となる。出典:国立国会図書館デジタルコレクション「本朝百将伝」

1441(嘉吉元)年、赤松満祐・教康父子が、将軍足利義教を殺害したため(嘉吉の乱)、山名持豊(宗全。1404〜1473年)により討伐されました。
(1458(長禄2)年、長禄の変での功績で、赤松政則(満祐の弟の孫)の時に再興が許された。)

◉戦国時代:黒田官兵衛、姫路城城代に

黒田孝高(1546〜1604年。官兵衛・如水)。筑前国福岡藩祖となる。

黒田孝高(1546〜1604年。官兵衛・如水)。筑前国福岡藩祖となる。

1467(応仁元)年、応仁の乱のとき、赤松政則(満祐の弟の孫)は、山名宗全に対立する細川勝元に与し、播磨国を取り戻しました。
このとき、姫路城に本丸、鶴見丸、亀居丸を築きました。
その後は、一族の小寺氏、家臣の黒田氏が城を預かりました。
1567(永禄10)年には、後に秀吉の軍師を務める黒田孝高(1546〜1604年。官兵衛・如水)が城代(城郭及び周辺の領土の守備を任された家臣)になっています。

【姫路城の伝説1】:お菊井戸

お菊井戸

お菊井戸

城内の上山里丸にある「お菊井戸」が、有名な「播州皿屋敷」に出てくる井戸だといわれています。
永正年間(1504〜1521)、城主小寺則職の執権青山鉄山が城の乗っ取りを計画。
忠臣・衣笠元信は、愛妾・お菊を青山家に女中として送り込み、陰謀を暴きます。
しかし、青山一家のクーデターは成功。
お菊は青山家に残り、龍野に逃れた元信に情報を送っていましたが、ついに町坪弾四郎に気づかれてしまい、それを盾に結婚を迫られます。
しかし、お菊はどうしても首を縦に振りません。
腹を立てた弾四郎は、家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末として責め殺し、井戸に投げ込みました。
それからというもの毎夜「1枚、2枚…」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになったといいます。
その後、鉄山一味は滅ぼされ、お菊は「於菊大明神」として十二所神社境内にあるお菊神社にまつられています。

◉安土桃山時代:羽柴秀吉、姫路城を拠点化

羽柴秀吉(1537〜1598年)。出典:月岡芳年「月百姿」

羽柴秀吉(1537〜1598年)。出典:月岡芳年「月百姿」

織田信長は、羽柴秀吉(1537〜1598年)に中国攻め(毛利攻め)を命じて、秀吉は播磨国内に進駐しました。
播磨国内は、織田方と毛利方に別れて対立。
織田方の勝利により、毛利方についた小寺氏は没落しました。
しかし、秀吉と関係を築いていた黒田孝高は、そのまま秀吉に使えることになり、姫路城を秀吉に譲ります。
1580(天正8)年、播磨を平定した秀吉は、姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改め(このとき3層の天守閣を築いた)、南部に山陽道を通して城下町をつくり、姫路を播磨国の中心地となるように整備しました。
1582(天正10)年、主君信長が明智光秀に討たれたことを知った秀吉は、毛利氏との講和を済ませ、明智討伐に向かいます(中国大返し)。
このとき秀吉は、備中高松から姫路城を経由して上洛。
明智を討ち果たして、天下人の道を歩んでいきます。

【姫路城の伝説2】:姥が石

羽柴秀吉が姫山に三層の天守を築いていたとき、石垣の石がなかなか集まらず、苦労しているという話が広まっていました。
貧しい老婆がそれを聞き「せめてこれでもお役に立てば」と古くなった石臼を差し出しました。
これを知った秀吉は大変喜び、石臼を現在の乾小天守北側の石垣に使いました。
この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したため、工事が順調に進んだといわれています。

【姫路城の伝説3】:宮本武蔵の妖怪退治

刑部(長壁)神社。大天守6層に祀られている。

刑部(長壁)神社。大天守6層に祀られている。

木下家定(北政所の兄)が城主であった時代(1585〜1600)、姫路に立ち寄った宮本武蔵(1584?〜1645年)が名前を隠して足軽奉公をしていました。
そのころ、城に妖怪が出るといううわさが広まっていましたが、武蔵が平気で夜の出番を勤めていたことが家老の耳に入り、名高い武芸者であることが知られました。
木下家の客分にとりたてられた武蔵に、妖怪退治の命が下りました。
武蔵がある夜、灯ひとつを持って天守閣に登り、3階の階段にさしかかった時、すざましい炎が吹き降り、地震のような音と振動が。
武蔵が腰の太刀に手をかけると、辺りはまた元の静けさに戻りました。
構わず天守を登り、明け方まで番をしていたところ、
美しい姫(刑部神社の神)が現れ「われこそは当城の守護神、刑部明神なり。その方がこよい参りしため、妖怪は恐れて退散したり。よって褒美にこの宝剣を取らす。」といって姿を消しました。
武蔵の前には白木の箱に入った郷義弘の名刀が残されていたということです。

◉江戸時代:池田輝政、姫路城の完成へ

池田輝政(1565〜1613年)。姫路城の今日の姿をつくった。

池田輝政(1565〜1613年)。姫路城の今日の姿をつくった。

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後、池田輝政(播磨姫路藩初代藩主。1565〜1613年)は1609(慶長14)年にかけて姫路城の大改修を行いました。
これにより姫路城は、五重六階地下一階の大天守、3基の小天守、多くの櫓と門が並び立つ大城郭となりました。

この改修は、徳川家康の意図によるもので、豊臣恩顧の大名が多い西国を牽制するためでした。
なお、城の外港を整備するため、外堀から南の飾磨津(しかまず)に達する運河(三左衛門堀)を結ぼうと運河計画を実行しましたが、高低差を解決できず失敗しています。

1617(元和3)年、本多忠政(1575〜1631年。本多忠勝の長男)が入城します。

本多忠政(1575〜1631年。本多忠勝の長男)

本多忠政(1575〜1631年。本多忠勝の長男)

このとき、城の西側を流れる妹背川を、飾磨津までの舟運河川に改修し、船場川と改名。
これにより輝政時代の運河計画を克服し、城下から飾磨御蔵まで舟運によって物流が改善されました。
1618(元和4)年、忠政は、長男の忠刻(ただとき)と妻の千姫(1597〜1666年。天樹院。徳川秀忠の娘。豊臣秀頼の正妻だった。)のために、西の丸を整備し、今日の姫路城の全容が完成しました。

千姫(1597〜1666年)。天樹院。徳川秀忠の娘。豊臣秀頼の正妻だった。

千姫千姫(1597〜1666年)。天樹院。徳川秀忠の娘。豊臣秀頼の正妻だった。

幕末の鳥羽・伏見の戦いで姫路藩は朝敵とされましたが、新政府軍に恭順して姫路城は攻防戦の舞台を免れました。

【姫路城の伝説4】:棟梁・桜井源兵衛の死

池田輝政による姫路城築城のとき城普請にあたったのは大工棟梁・桜井源兵衛
輝政に命じられ、9年間仕事に打ち込み完成した姫路城。
しかし、造り上げた天守閣が巽(東南)の方向に少し傾いているように思えてなりませんでした。
妻を伴って天守に登ると、傾きを指摘されてしまいます。
愕然とした源兵衛は、まもなくノミをくわえて飛び下りたといわれています。

◉明治時代:陸軍省管理、明治の大修理

1869(明治2)年の版籍奉還後に姫路城は国有化され、兵部省、陸軍省に引き継がれました。
1882(明治15)年には失火で、本丸御殿の備前丸が焼失しています。
1878(明治11)年、姫路城の腐朽を憂いた陸軍省の中村重遠大佐がこれを保存し、費用は陸軍省に於いて負担すべき旨を、陸軍卿の山縣有朋に報告します。
これを受け、1879(明治12)年に姫路城と名古屋城の保存が決定しました。
「明治の大修理」は、1910(明治43)年から翌年にかけて行われました。

◉大正時代:一般公開はじまる

1912(大正元)年、姫路市は、陸軍が使用していない本丸・二の丸と三の丸の一部の城域を借り受け、姫山公園として整備して一般公開を始めます。

◉昭和時代:昭和の大修理

1928(昭和3)年、姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となります。
1931(昭和6)年、大天守などが国宝に指定されています(「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年施行の文化財保護法における重要文化財に相当)。
太平洋戦争中、城郭建築の焼失は幸い免れました。
この戦争の前後に「昭和の修理」が行われ、特に1956(昭和31)年からの大天守の修理を「昭和の大修理」と呼びます。
なお、このとき俗謡にも歌われた城の傾きを改善するために礎石が取り除かれ、鉄筋コンクリート製の基礎構造物に取り替えられました。
これは世界遺産修復の際に求められる「真正性」(ヴェネツィア憲章「伝統的な素材や工法を用いること」)の例外として許容されています。

◉平成時代:世界遺産登録、平成の大修理

1993(平成5)年、姫路城は、法隆寺地域の仏教建造物とともに日本初の世界遺産に登録されます。
2009(平成21)年から2015(平成27)年に姫路城大天守保存修理工事(「平成の大修理」)が行われました。

■姫路城の地形

姫路城の地形図

姫路城の地形図

軍事を最優先にして築かれた「山城」では、交通の便や領国支配には適さない場合も多く、城を領国の政治・経済的中心とするべく整備するようになります。
また、鉄砲の普及とともに、戦闘方法が個人・接近戦から集団・遠距離戦へと変化し、見通しが開ける地での戦闘が増えてきました。
そこで、平野の小高い丘を立地として築かれたのが「平山城」です。
姫路城は、姫山を活用した平山城で、特に「三大近世平山城」とされます(松山城・津山城とともに)。

姫路城の地形図・総構

姫路城の地形図・総構

城は立地場所が決まった段階で、区画となる曲輪(くるわ)の組み合わせを考え、構造が決定されます。
縄を張ることで城の構造の配置を定めたため縄張(なわばり)といいました。
姫路城の縄張のパターンは、「渦郭式」縄張というもので、本丸を中心に曲輪が渦巻状・螺旋状に連なる曲輪を持ち(内曲輪・中曲輪・外曲輪)、三重の水濠(内濠・中濠・外濠)を持っています。
天守のある姫山、西の丸のある鷺山を中心に、周囲の地形を利用し城下町を内包した難攻不落の総構(そうがまえ)を形成しました。

■姫路城の建築

姫路城の施設 出典:<a href="https://www.city.himeji.lg.jp/castle/0000007738.html">姫路城公式サイト</a>

姫路城の施設 出典:姫路城公式サイト

◉大天守

天守群。左から乾小天守、西小天守、大天守。大天守に隠れている東小天守を含め連立式の天守群となっている。

天守群。左から乾小天守、西小天守、大天守。大天守に隠れている東小天守を含め連立式の天守群となっている。

大天守は、池田輝政により建てられ、五重六階地下一階の構造で31.5mの高さとなっています。
天守の型は、「望楼型」天守という入母屋造り屋根(上部は切妻造:長辺側から見て前後2方向に勾配。下部は寄棟造:前後左右四方向へ勾配)を持つ建物の上に、建物(望楼)を載せた構造(松江城天守と同じ)。
屋根の破風部分(屋根側面にできる三角形)は、緩やかな曲線を描く「唐破風」、本を伏せたような山形を描く「千鳥破風」となっています。
壁面外装は、白漆喰総塗籠造(しろしっくいそうぬりごめづくり)で、白漆喰で塗り固めることで、防火・耐火・鉄砲への防御に加え、美観を兼ね備えています。

◉天守と小天守との関係

五層大天守に加え、三層の東小天守、乾小天守、西小天守を四隅として、それぞれの間を渡櫓(イ・ロ・ハ・ニ)で結んだ「連立式」天守となっています(松山城天守と同じ)。

◉御殿

西の丸。本多忠政が築いた曲輪で、千姫ゆかりの化粧櫓や長局が残っている。

西の丸。本多忠政が築いた曲輪で、千姫ゆかりの化粧櫓や長局が残っている。

これら天守群の正面空き地には、1882年に焼失した本丸御殿「備前丸」が存在しました。
これは池田輝政の所領備前国にちなんだ名でした。
しかし、備前丸は山上で使い勝手が悪く、本多忠政は三の丸の「本城」に居住しました。
または「西屋敷」に居住していました。
なおこの西屋敷には、榊原政岑(まさみね)が、吉原から高尾太夫(吉原で最も有名な遊女で、ふさわしい女性が代々襲名し、吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓とされた。この高尾太夫は6代目。)を落籍させて住まわせました。
政岑は、奇抜な服装をし、吉原で派手に遊興にふけるなど、将軍吉宗の方針に反したため怒りをかっています。
現在この一帯は、姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」として整備されています。

◉櫓門(やぐらもん)

菱の門

菱の門

門は城の出入口を守る最重要施設。
櫓門は、階下を門とし階上を櫓とし、門の両脇を石垣で固めた防御施設です。
「菱の門」は、二の丸入口にある櫓門で、現在では正面登閣口から入って最初に通る門となっています。
西側にある石垣と土塀で「枡形」虎口を形成しています。
城内の現存の門では唯一、安土桃山時代の意匠を残しています。

◉石落

石落は、天守や櫓、門や塀など一部を土台から張り出させ、床面に開口部を設けて、下に迫る敵を監視し、攻撃するもので姫路城にも残っています。

◉狭間(さま)

三国堀の土塀。さまざまな形の狭間がある。

三国堀の土塀。さまざまな形の狭間がある。

天守や櫓、門などの壁面に、矢や鉄砲を放つために設けられた穴のこと。
弓矢用に縦長の穴である「矢狭間」、円形や、三角形、四角形の穴である「鉄砲狭間」などがあります。
姫路城の三国堀の土塀には、矢狭間と鉄砲狭間が残っています。

◉石垣

内濠の石垣。隅は算木積で、全体は打込接の石垣で組まれている。

内濠の石垣。隅は算木積で、全体は打込接の石垣で組まれている。

時代ごとに異なる加工度の石垣が残っています。
【羽柴氏時代】
二の丸に、野面積(のづらづみ。未加工の自然石を用いた。)。
【池田氏時代】
本丸に、打込接(うちこみはぎ。加工度の増した粗割石が使用され石材間に間詰石を用いた。)・算木積(さんぎづみ。石垣隅部の石材を長辺と短辺を交互にした積み方。石垣隅部の強度が増し、高石垣の構築が可能となった。)。
【本多氏時代】
西の丸に、打込接算木積
【幕末にかけて】
三の丸など各所に、切込接(きりこみはぎ。徹底的に加工した石材を用いた。算木積部分から採用され、石垣全体に広まった。)。

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📕姫路城はもちろん、外曲輪など城下町、播磨文化まで紹介されています。

📕姫路の郷土史家で、ガイドによる一冊。現場目線で紹介されています。

🎁姫路城の内曲輪を再現した本格的ジオラマ。美しいです。

🎁姫路城の天守群を再現した本格的ジオラマで、望楼型天守・連立式天守が楽しめます。

🎁レゴ感覚の姫路城。可愛いらしい外観です。

■実際に訪れてみて

お堀前の芝で暖をとるネコ。癒されます。

お堀前の芝で暖をとるネコ。癒されます。

江戸城天守閣が存在しない現在では、最大の姫路城大天守。
平成の大修理を終えた直後、白漆喰総塗籠造による外装は白過ぎなどと言われましたが、実際に目の当たりにした白亜の天守群には、外装など度外視で圧倒されます。
標高約50mの姫山に天守群が存在する点や、渦郭式縄張りによる各曲輪の櫓や塀、石垣が見事に結びついている点が、姫路城の存在感を高めています。
一般的には内曲輪部分が姫路城として認識されますが、中曲輪や外曲輪を含む総構全体を考えたとき、姫路城の奥深さが一気に広がるように思います。
本多忠政の時代にはじまった船場川の舟運など、城を拠点とした城下町全体の機能など興味は尽きません。
日本人ならば一度は訪れたい日本の城。
まさに城郭建築の教科書です。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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