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✔︎ 最初の皇帝、始皇帝の人生がわかるようになります
✔︎ 始皇帝陵と兵馬俑坑への旅行の予習になります
◾️ 概要
こんにちは!
くろひよです!
本日は始皇帝陵をご紹介します。
原泰久さんの大人気漫画『キングダム』の主要登場人物、紀元前221年に中国初の統一国家を築いた秦の始皇帝(紀元前259年〜210年。秦王・嬴政[えいせい]、または趙正[ちょうせい])の陵墓(皇帝や皇室の墓)です。
建設期間は、秦の国王即位の紀元前246年から、死後2年経った紀元前208年までというから、40年近くかかっています。
二重の城壁に囲まれ、外側の城壁の規模は東西940m・南北2,165mというスケールの大きさ。
中心にある墳丘は、截頭方錐型(せっとうほうすいがた。錐体の上部が平面)と呼ばれ、神殿や祭祀施設がありました。
しかし、この皇帝の陵墓の本格的発掘は未だ行われていません。
歴史家・司馬遷(前145〜前86)の歴史書『史記』によれば、陵墓内の「天井には天文の絵を描き、床には水銀を流して川や海をつくった」とあり、実際に土中の水銀含有量が高かったそうです。
また、日本でも有名な兵馬俑坑は、始皇帝陵の東1.5km離れた場所にあり、1974年に農民が発見しました。
(彼は地元では有名人となっています。)
そこから、大量の兵馬俑と青銅製武器が出土しました。
「兵馬俑」とは、兵士や軍馬をかたどった陶製の像のことで、かつては彩色が施されて、どれも異なった容貌をしていました。
秦の始皇帝の偉業を振り返るとともに、実際に訪れた始皇帝陵と兵馬俑坑についてご紹介したいと思います。
世界遺産の登録基準は以下のとおりです。
(i) 人間の創造的才能を表す傑作である。
(ⅲ) 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
(ⅳ) 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(ⅵ) 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
◾️ 秦始皇帝(嬴政・前259〜前210)
秦の始皇帝が生きた古代中国の「戦国時代」は、春秋時代に続く時代です。
大国の晋が趙・韓・魏の三国に分裂したことに始まり(前403年)、「戦国の七雄」(韓・趙・魏・楚・燕・斉・秦)の大国同士が争うようになります。
そしてついに、始皇帝によって中華統一が果たされます(前221年)。
📕キングダムは秦の将軍・李信を主人公とした大人気漫画。現在は、統一戦争に突入中。
◉ 始皇帝の出生
嬴政(始皇帝)は、戦国七雄の一国である趙(ちょう)の邯鄲に生まれました(前259年)。
なぜ自分の国である秦ではなく、趙に生まれたのか。
春秋戦国時代、諸国の間では太子や公子を質子(ちし。人質)として交換する習慣があり、秦の王子であり、嬴政の父となる子楚(のちの荘襄王)も、その一人でありました。
しかしタイミングが悪く、嬴政が生まれる前年に、秦と趙との間で大きな戦が起こっていたのです。
長平の戦い(前260年)では、秦の老将・白起が、45万もの趙兵を偽りの上、生き埋めにするという残忍な戦を行いました。
(1995年、山西省高平市永禄村の古戦場跡から十数箇所の人骨坑が出土。)
当然ながら、趙人の秦に対する感情は、最悪な状態でした。
この頃、韓もしくは衛の大商人であった呂不韋は、子楚と出会いました。
呂不韋は、子楚の将来を見込んでサポートしていきます。
さて、子楚は、呂不韋の愛姫に惹かれるようになります。
そして、子楚と愛姫の間に生まれたのが嬴政です。
このような関係性から、嬴政の父親を呂不韋とする説も生まれました(史記呂不韋列伝、漢書)。
呂不韋の実力は、「戦国四君」に並び立つものでありました。
戦国四君は、広大な領土と数千人規模の食客を抱え国王を凌ぐ実力者たちのことです。
(楚の春申君、斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君のこと。)
◉ 秦王即位
嬴政が、趙の都・邯鄲を脱出したのは、昭王50年(前257年)で9歳の頃とされます。
同年、秦の王齕(おうこつ)将軍が、邯鄲を包囲している最中のことでした。
前251年、昭王(嬴政の曽祖父)が亡くなり、在位半世紀以上の長期の治世が終わりを告げます。
跡を継いだ孝文王(嬴政の祖父)が即位しましたが、わずか3日間で亡くなります。
そしてついに父親である荘襄王(子楚)が即位しましたが、荘襄王もまた在位3年余りと短命で亡くなってしまった。
これにより、弱冠13歳の嬴政が秦王として、丞邦(丞相)呂不韋を後ろ盾に即位する運びとなります(前247年)。
このとき、早くも驪山(りざん)北嶺の地に、始皇帝陵となる陵墓の造営が始まりました。
◉ 嫪毐の乱
始皇9年(前238年)、秦王嬴政にとって生涯最大の内乱が起こりました(嫪毐の乱)。
嫪毐(ろうあい)は、腐罪(去勢の刑)を受けたと偽り、後宮に入り込み、秦王の母・太后と結びつき権力を得ました。
なぜ嫪毐が後宮に入り込めたのか。
呂不韋が、自分の元の愛姫であった太后(趙姫)との関係発覚を恐れ、嫪毐を後宮に送り込んだといいます。
嫪毐は、私奴婢や、屋敷に抱える舎人も千数百を抱え、長信侯に封じられると同時に、咸陽の東方、太原(山西省)・山陽(河南省)の地を治めて権勢を持ちました。
またその背後にいる呂不韋も、東方の洛陽を拠点としていました。
西方:秦王の咸陽と、東方:呂不韋と嫪毐の勢力といった形で、国が二分されていました。
秦王嬴政は、嫪毐の反乱の動きを察知し先んじて動き、昌平君・晶文君(二人とも楚の王族でありながら秦に仕えていた)に兵を動員させ、嫪毐を攻撃し打ち破ります。
成人の儀を無事終了させ後、嫪毐一族を皆殺しにし、二人の同母弟を殺し、母太后を雍城に幽閉。
事件に呂不韋が関わることが明らかになるものの、父親である荘襄王以来の功績の大きさから、厳罰を下さず、翌年10月に相邦の職を罷免。
文信侯の爵位そのままで、呂不韋は河南の封地に送られました。
しかし、呂不韋のもとに再び諸侯や賓客が集まり出したことから、秦王は蜀の地に呂不韋を移すこととします。
呂不韋はその前に酖(猛毒のある鴆という鳥の羽毛を漬けた酒。鴆毒。)をあおって自死を選びました。
鴆は、唐代では既に伝説上の毒鳥となっておりその存在は疑問視されています。
しかし、ニューギニアにはピトフーイ、ズアオチメドリなど羽毛に毒を持つ鳥が実在するようです。
◉ 暗殺未遂
始皇帝と言えば、映画になるほど暗殺未遂事件が有名です。
なかでも、荊軻(けいか)による事件が有名です(史記刺客列伝、戦国策燕策)。
燕の太子・丹は、趙の邯鄲で質子として過ごした時代に、同じ境遇にあった嬴政と親しくしていたそうです。
嬴政が秦王に即位すると、丹は秦の質子となりました。
しかし、この時の秦の待遇が悪かったと、丹は恨みを抱いたまま燕へと帰国します。
対秦の政策をめぐり、丹は、太傅の粷武(きくぶ)に相談。
対応に苦慮した粷武は、田光を介し、同じく秦への反感を持つ荊軻を紹介します。
この頃、嫪毐の乱が原因で、秦から樊於期(はんおき)将軍が燕に逃亡していました。
荊軻は、樊於期の首と、燕の督亢(とくこう)の地図(土地)を献上することで、秦王との会見実現を提案します。
荊軻の目論見通り、秦王との会見が実現することになりました(始皇20年(前227年))。
秦王は、燕からの使者を咸陽宮にて最高待遇で迎えました。
接見の際、荊軻は、樊於期の首の入った箱を。
副使・秦舞陽が、地図の入った箱を捧げて、秦王の前に進みました。
秦王が地図を受け取り中を開くと、短剣が現れ、荊軻は秦王の袖を掴み、短剣を秦王に突き付けます。
秦王はなんとか荊軻を斬りつけ、暗殺は未遂に終わりました。
報復として、始皇21年(前226年)、秦の王翦(おうせん)将軍は、燕太子の軍を破って、燕の上都の薊(北京)に入ります。
李信将軍は追撃して丹の首を獲りました(燕王喜自身が処断したという言い伝えもあります)。
燕国はかろうじて残っていましたが、亡国寸前の状態でした。
📕史実の始皇帝の姿が、非常にわかりやすいです。キングダムに登場するキャラクターも多数出てきます。
◉ 天下一統
荊軻による暗殺未遂が起こる以前に、秦は東方へ侵攻を進めていました。
・秦の内史・騰(とう)が、韓王安を捕虜とし韓は滅亡しました(始皇17年(前230年))。
後に漢の劉邦を補佐する、韓の張良は、このとき殺された弟のため秦王への復讐を誓います。
王翦将軍は趙を猛攻撃し(始皇18年(前229年))、趙の大将李牧(りぼく)を討ち、趙王遷を捕虜にし邯鄲を陥落させました(始皇19年(前228年))。
秦王自身も邯鄲に赴き、母親の家が受けた仕打ちへの報復として、関係者を穴埋めにしました。
・王賁(おうほん)将軍は、魏の大梁(開封の西北)を3ヶ月間水攻めにし(韓非の戦術)、魏王仮を捕虜にし、魏を滅亡させます(始皇22年(前225年))。
・王翦将軍と蒙武将軍は、楚の項燕将軍を討ち(始皇23年(前224年))、寿春を攻め、楚王負鄒(ふすう)を捕虜とし、楚は滅亡(始皇24年(前223年))。
秦は、西楚の漆、南楚の金鉱、銅山、錫などの鉱物資源や、玉などの豊富な資源を手に入れます。
また戦の間、秦の相邦を務めた昌平君は、故郷の楚に戻り楚王を助ける立場になっており、落命したとされます。
さらに、項燕の子である項梁、孫の項羽は、始皇帝亡き後に挙兵することになります。
項羽が劉邦と中華の覇権争いを演じたことは有名です。
・王賁将軍が、燕王喜を捕虜にし、燕は滅亡(始皇25年(前222年))。
秦ははじめて海を持つ国を手に入れ、魚介・海塩・棗(なつめ)・栗などの海産資源を手に入れました。
・同年さらに、代王嘉(趙王遷の跡を継いで、代で王を名乗っていた)を捕虜とし、趙は滅亡(始皇25年(前222年))。
・王賁将軍は、斉王建を捕え、斉は滅亡(始皇26年(前221年))。
ここに至って、秦は武力により東方六国のすべてを滅ぼし、天下一統を成し遂げました。
始皇17年の韓の滅亡から、始皇26年の斉の滅亡までわずか9年。
なかでも、王賁将軍の活躍が目立ちます。
◉ 皇帝誕生、泰山封禅
秦王は丞相らに王に代わる称号を議論させ「秦皇」号が考案されました(始皇26年(前221年))。
しかし、秦王はそれを採用せずに「皇帝」号を選び、この呼び名が現在まで続いています。
また、全国には、封建制に代わり「郡県制」をしき、36の郡に中央から守(長官)・尉(軍官)・監(監察官)を任命し派遣しました。
さらに、度量衡の統一、車輪幅の統一、文書形式の統一を図り、中華全体の標準化を図っていきます。
始皇26年(前221年)から、始皇帝は生涯5度に及ぶ全国巡行に出ることになりました。
特に、始皇28年(前219年)の第二回巡行で、「泰山封禅」を行います。
泰山で天を祀り(封)、梁父山で地を祀る(禅)儀式を行い、祭祀を通して統一事業を全国に浸透させようと試みでした。
◉ 新たな戦争、長城と焚書坑儒
ここに、六国との統一戦争後の新たな戦争が始まります。
始皇32年(前215年)、始皇帝は、蒙恬(もうてん)将軍に30万人の兵を率いて北方の匈奴を攻撃させ、河南(陝西省北部から内モンゴルの草原地帯)を占領させました。
このとき北への防衛線として長城を築き始めるようになります。
これが後の王朝にも引き継がれていく「万里の長城」建設の端緒となります。
一方、南方では、桂林・象(しょう)・南海の3郡を置いて罪人に守らせていました(始皇33年(前214年))。
南方の百越に50万人の兵を送り大規模な戦争が始まります。
秦は南北同時戦争体制に突入しました。
始皇34年(前213年)、秦が再び戦時体制に移行したことに伴い、内側への引き締めが強まります。
丞相・李斯(りし)は、諸生が古に学び今を批判し民衆を惑わせているとし、書物を焼くことを提案しました(焚書)。
始皇35年(前212年)、咸陽の人口が増えてきたため、渭水の南、上林苑に朝宮をつくり、阿房宮(あぼうきゅう)を造営します。
阿房宮や驪山(始皇帝陵)の建設には、刑徒70数万人が動員されました。
また、この年、始皇帝を批判する諸生が民衆を惑わすとし、460人余りを穴埋めにしました(坑儒)。
必ずしも儒者のみが対象ではなかったのですが、後漢時代にそのように解釈されました。
秦の新たな戦争は、「焚書坑儒」という有名な政策や「万里の長城」という建造物を生み出していきました。
◉ 皇帝の死
始皇37年(前210年)、始皇帝の第5度目の巡行に出発します。
そしてこれが最後の巡行となりました。
左丞相の李斯、末子の胡亥(こがい)が同行していました。
始皇帝は平原津(黄河の渡し場であった場所)で病を得ます。
そこで、長子・扶蘇(ふそ)への遺詔(天子の遺言)を作成し、中車府令の趙高(ちょうこう)に託しました。
その後、8月に始皇帝は沙丘の平台で崩じます。
秦の瓦解は、ここから始まります。
なんと、趙高は、胡亥や李斯とともに皇帝の遺詔を破棄した上に、偽の遺詔を2つ作成しました。
その内容は、末子・胡亥を太子と認めること。
もう一つの内容は、長子・扶蘇と蒙恬将軍に死罪を賜ること。
胡亥は、即位して二世皇帝となり、始皇帝は驪山に埋葬されました。
秦は内乱を迎え始皇帝の死から4年後、前206年に崩壊。
秦王子・嬰が、沛公・劉邦に降ることで、中華初の王朝は幕を下ろしました。
📕夏王朝など伝説に近い時代から、秦はもちろん、清王朝まで多くの写真が使用された最新の図鑑です。兵馬俑や当時の甲冑や戦車なども紹介されています。
◾️兵馬俑坑

兵馬俑。屋内施設の中で保存されています。

秦の大軍勢
非常に広い体育館のような建物の中に居並ぶ秦の軍勢。
およそ8,000人の歩兵、130台の戦車、150頭の馬かなる軍団が陵墓を守っていました。
圧巻の一言に尽きます。
陣形をとって配置されています。
これらを造らせた始皇帝の権力の大きさを、実感できる場所です。

秦の兵。剣を抜こうとしているようだが、膝立ちの弓兵のようだ。

秦の弓兵。本来、弓に矢をつがえている。

中級官吏。武人だけでなく文人の俑も残されている。

高級官吏。文人の最高峰クラス。ヒゲが立派です。

軍馬の俑。馬の姿も精巧に造られていることがわかる。
実際の等身大のモデルがいたかの如くリアルです。
役職ごとに違った装備やポーズをとる秦の武人たちの姿。
文人の俑も残されていて、当時の実在した人々の姿が思い浮かびます。

秦の兵の背後。赤い着色が残っている。
背中の腰の辺りが赤く彩色されていたことがわかります。
兵馬俑は土色のイメージですが、本来はいずれもカラフルに彩色されていたようです。
姿形のリアルさだけでなく、色彩にもこだわる為政者の価値観が反映されています。
こちらは上野の国立博物館での「始皇帝と大兵馬俑展」(2015〜2016)から。
漫画・アニメの人気も絶大であることから、日本でも兵馬俑は人気展示の一つです。
◾️始皇帝陵
驪山にある始皇帝陵。
訪れたときは、生憎の雨模様でした。

始皇帝陵。驪山の麓にモニュメントが立っています。
始皇帝死後の反乱により、陵墓の略奪が起こっています。
しかし、この地に司馬遷が記述した未発掘の、始皇帝の眠る地下世界があると思うと、ロマンを感じます。
古代中国史ファンや『キングダム』ファンの方は、ぜひ一度訪れることをオススメします。
【行き方】
私は西安へのツアーで参加しましたが、現在は中国の団体ツアーに規制がかかっているようです。
近い将来きっと解除されることでしょう。
それまで関連書籍で予習しておくと、旅の味わいが深まるはずです。