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【二つの川に挟まれた高台と高級住宅街】広尾・渋谷まち歩き【東京都】

2023年6月28日

有栖川宮記念公園
*本ページはプロモーションが含まれています。

■ はじめに

こんにちは!
くろひよです。
今日は広尾・渋谷について、探索していきます!

広尾は、渋谷区の南東部。
イメージされる高級住宅街は二丁目や三丁目の高台にあり、オフィスビルや店舗は幹線道路沿いに多く見られます。
また、渋谷川が古川へと名を変える「天現寺橋」があります。
広尾の地形的特徴の一つは、西から東へ流れる「渋谷川(古川)」に向かって、北から南へ流れる「いもり川」や「笄川(こうがいがわ)」が、谷間と台地を形成したことです。

歌川広重「名所江戸百景-広尾ふる川」

もともと広尾は「樋籠(ひろう)」と記され、「広尾原」とも呼ばれた広大な原野でした。
歌川広重「名所江戸百景-広尾ふる川」には、八代将軍吉宗も鷹狩りをしていた広尾原と古川が描かれています。
(ちなみに、相模殿橋の左に見える料理屋は「狐鰻」という鰻屋です。)
現在の渋谷区と港区にまたがっており、渋谷広尾町、麻布広尾町などと呼ばれていました。

✔︎ 広尾に残る原宿とは?
✔︎ 根津美術館の池の水はどこへ?
✔︎ 義経襲撃者ゆかりの神社とは?


 
広尾・渋谷の地形

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① 有栖川宮記念公園

有栖川宮記念公園

広尾駅から東側へと傾斜を登っていくと、 有栖川宮記念公園にたどり着きます。

この場所は、江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷として使われていました。
1896年(明治29年)、有栖川宮威仁(たけひと)親王の第一王子・栽仁(たねひと)王の新邸造成の御用地となります。
有栖川宮の廃絶後、大正天皇は第三皇子・光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王に、有栖川宮の旧称「高松宮」の称号を賜り、御祭祀を継がせます。
その後、高松宮殿下は、年昭和9(1934)年に当地を東京市に賜与し、記念公園として一般開放しました。
昭和50(1975)年には、港区に移管されて、区立公園となり多くの人に親しまれています。
公園内に威仁親王の異母兄にあたる有栖川宮熾仁(たるひと)親王の銅像が建っています。
有栖川宮熾仁親王

有栖川宮熾仁親王(1835-1895)は、明治時代の政治家および軍人で、明治維新に影響を与えた人物として有名です。
王政復古によって新政府の総裁となり、戊辰戦争時には東征大総督として活動しました。
その後、兵部卿として海陸軍の創設に尽力し、多くの政治的な役職を歴任しました。
また、元老院議長や福岡藩知事なども務め、西南戦争では軍を指揮し、九州一帯を平定しました。
さらに、明治天皇の信任を深め、元老院議長や陸軍大将となり、天皇の補佐役として重要な役割を果たしました。
有栖川宮記念公園

公園内の池は、笄川の水源のひとつとなっています。
笄川が暗渠化されている中で、水の様子を確認できる貴重な場所です。

有栖川宮記念公園を出て、笄川(広尾橋)を渡って西へ真っ直ぐ進むと寺院があります。

参考)有栖川宮記念公園

② 祥雲寺

祥雲寺

祥雲寺は、初代福岡藩主で関ヶ原の戦いでも活躍した黒田長政公を弔うために創建された寺院です。
本堂や書院は、寛永6年(1629)8月に麻布市兵衛町に新地を拝領し移転した際に、瑞泉山祥雲寺と改称されました。
その移転には、幕府医官の今大路家(曲直瀬家)が関与していたとされています。
安政年間(1854-1860)には、禅宗建築による書院が建立されました。

黒田長政(福岡市博物館所蔵)

黒田長政(出典:福岡市博物館所蔵)

黒田長政公の墓所があり、これは渋谷区の指定文化財に認定されています。
檀家には武家が多く、福岡藩主黒田家をはじめとする諸大名の墓地群が存在します。
江戸時代初期の医家で、将軍秀忠の侍医となった岡本玄治の墓もあります(東京都指定旧跡)。
明治32年(1899)から数年間にわたりペストが流行した際、予防のために殺された鼠の霊を供養するために明治35年(1902)に建てられた「鼠塚」という珍しい動物慰霊碑もあります。

祥雲寺の北側は台地になっており、台地のへりを西へ向かいます。
広尾高級住宅

広尾高級住宅

この高台は高級住宅の一角となっています。

さらに西へ向かうと谷間があります。
この谷は、いもり川が形成したものです。

参考)祥雲寺

③ いもり川跡

いもり川跡

いもり川は、笄川と同様に北から南へと流れて、渋谷川(古川)に注ぎ込んでいます。
その源流は青山学院東門辺りの低地からとされます。
いもり川階段

現在全区間が埋め立てられ暗渠となっています。
いもり川跡を北へ登っていくと、右手の台地側には日本赤十字社医療センターが見えます。

④ 日本赤十字社医療センター

日本赤十字社医療センター

日赤がある高台は、西のいもり川と東の笄川に削られてできた台地です。
高級な住宅が多いエリアです。
日本赤十字社医療センター前から西へ

医療センターから西に目線をやると、いもり川の谷間がよくわかります。
台地の東側へと向かいます。

⑤ 広尾ガーデンヒルズ

広尾ガーデンヒルズ

いもり川と笄川に挟まれた台地の東側の一角は、広尾ガーデンヒルズという高級大規模マンションのエリアになっています。
住友不動産、三井不動産、三菱地所、第一生命保険の4社共同開発によって、1987年に全体が竣工しました。

東京で知られた高額のいわゆる「ヴィンテージ・マンション」の筆頭格であり、緑豊かで落ち着いた住環境の良さなどが評価され、竣工から随分経った現在まで、中古市場で高い人気を維持しています。

「ヒル」と呼ばれる5つの区画に分かれ、統一コンセプトのもとにそれぞれが異なる特色をもってデザインされています。
イーストヒルは、ロンドンのタウンハウスや街並みを取り入れたデザインで、雁行型の建物に特注の打ち込みタイルの外壁が用いられ、築30年以上経った今でも新築時と変わらぬ美しさと落ち着きを維持しています。
また、約57,000㎡の広大な敷地に、ケヤキ80本、クスノキ45本、ウメ34本、桜43本、キンモクセイ370本が植栽され「広尾の森」とも称される豊かな緑が広がっています。
平成20(2008)年から平成25(2013)年にかけ、北西隣接地に「広尾ガーデンフォレスト」が新たに竣工しました。

ガーデンヒルズの高台から東の谷間へ降りていきます。
堀田坂

堀田坂です。
(謎の石頭、石の仮面が...?)
ここを降ると、笄川跡の谷間に出ます。

参考)
広尾ガーデンヒルズ​​
広尾ガーデンフォレスト

⑥ 笄川(こうがいがわ)跡

笄川跡

笄川は、東京都港区と渋谷区の境界付近を流れる古川水系の河川です。
現在は全面的に暗渠化されています。
青山墓地の舌状台地の東西を流れる蛇が池支流が、長者丸支流を合わせ南へと流れ、さらに根津邸支流や有栖川宮支流などを合わせ、天現寺橋付近で渋谷川と合流します。
笄川跡

かつては青山から麻布にかけて大小の水源が存在しましたが、今では根津美術館内の池と、有栖川宮記念公園内の池のみが水源の名残を留めています​。
西麻布三丁目と広尾四丁目付近から、天現寺橋にかけての港区と渋谷区の境界は、笄川に沿って定められています。
広尾駅から天現寺橋にかけての境が蛇行しているのが地図上で確認できます。
現在の西麻布四丁目付近の笄川には、牛坂へと続く「笄橋」がかかっていました。
天現寺交差点脇の笄川合流点より上流は「渋谷川」、笄川合流点より下流は「古川」です​。
現在、笄川にかかる橋は最下流部の「天現寺橋」以外には存在しません。
かつて存在した橋としては、「笄橋」や「広尾橋」がありました​。

⑦ 西麻布の支流跡(高樹町支流)

西麻布の支流跡

笄川への支流のひとつです。
この付近の谷間の低地には、百姓地の水田が広がっていました。
一方、笄川周辺の高台、例えば現在の青山墓地は、郡上藩青山家下屋敷の武家地が存在しました。

現在の原宿駅から東に2km離れた場所ですが、なんとこの谷間の低地は、近世では「原宿」と認識されていました(『東都青山絵図』)。
台地のへりを流れる渋谷川沿いの低地(東郷神社あたり)と、台地中の笄川沿いの狭い谷間だけが、百姓地として残り、近世の原宿村を形成していたようです。


📕『みる・よむ・あるく東京の歴史7:地帯編4 渋谷区・中野区・杉並区・板橋区・練馬区・豊島区・北区』

⑧ 長谷寺(ちょうこくじ)

長谷寺

大本山永平寺別院・長谷寺は、曹洞宗の寺院であり、普陀山とも呼ばれています。
本尊は奈良県桜井市にある大和長谷寺の観音の写し。
長谷寺はもともと赤坂溜池の近くにありましたが、天正12(1584)年に現在の場所に移転しました(当時は竜雲寺)。
徳川吉宗の狩りの際にはしばしば休息所として使用されたと云います。

長い歴史の中で、多くの著名な人々の墓があります。
墓地には井上馨・黒田清輝のほか、武蔵六浦藩米倉家累代墓、儒者の谷一斎・大高坂芝山、江戸時代中期に備後福山藩の侍医・儒官であった伊沢蘭軒、幕末能楽師の観世清興、歌舞伎「月梅薫朧夜」のモデル花井梅、明治の陸軍軍医総監の橋本綱常、明治維新後の学制施設の中心となった渡辺洪基、明治・大正期の劇評家・脚本家の岡鬼太郎・杉贋阿弥などの墓があります。
麻布大観音(十一面観世音菩薩)

麻布大観音(十一面観世音菩薩)は、正徳6(1716)年に二丈六尺の大観音が建立され、江戸屈指の観音霊場として人々の尊崇を集めていました。
しかし、1945年の戦火で焼失。
大観音の再現を願う人々の厚い信仰により、1977年に三丈三尺(約10m)の十一面観世音菩薩が蘇りました。

長谷寺の北側の谷間は、根津美術館の庭園にあたります。

参考)長谷寺

⑨ 根津美術館

根津美術館

根津美術館は、東京都港区南青山に位置する私立の美術館で、1941年に東武財閥の創設者である初代根津嘉一郎の古美術コレクションを展示するために開設されました。
展示物は茶道具、仏教絵画、写経、水墨画、近世絵画、中国絵画、漆工、陶磁器、日本刀とその刀装具、中国古代青銅器など、あらゆる分野の一級品が揃っています。
美術館の敷地はかつて、江戸時代に河内国丹南藩藩主・高木家(美濃衆の一家)の江戸下屋敷があった場所で、根津嘉一郎が1906年に取得し、邸宅を建設したものです。
その後、2代目根津嘉一郎がこの邸宅を美術館に改装しました。
藤井斉成会有鄰館、大倉集古館、白鶴美術館、大原美術館などと共に、戦前からの歴史をもつ美術館のひとつです。
2006年に改築工事のために一時休館し、2009年に建築家・隈研吾の設計による新展示棟が完成し、再開されました。
美術館の敷地内には、池を中心とした日本庭園や茶室、薬師堂などがあります。
国宝指定の作品をいくつか所蔵しており、鎌倉時代の《那智滝図》や、尾形光琳の《燕子花図屏風》が有名です。

燕子花図屏風(出典:根津美術館)

燕子花図屏風(出典:根津美術館)

カキツバタ

《燕子花図屏風》はカキツバタ開花の季節に合わせて、毎年4月下旬から5月上旬にかけて公開されます。
よって、庭園のカキツバタと作品を同時に鑑賞できます。
根津美術館・笄川の水源

また、庭園の湧水は、笄川の水源のひとつとなっています。
この場所も笄川が暗渠化されている中で、水の様子を確認できる貴重な場所です。

参考)根津美術館

⑩ 國學院大学渋谷キャンパス

國學院大学渋谷キャンパス

國學院大學は、1882年に創設された皇典講究所を起源とする大学です。
皇典講究所は、明治政府の神道政策の一部として設立され、古典の研究と神職の育成を目指していました。
初代総裁は、有栖川宮幟仁(たかひと)親王でした。
有栖川宮熾仁(たるひと)親王の父親となります。

1890年に、この皇典講究所により國學院が設立され、日本の伝統文化を明らかにし、自己実現のための人材育成、そして国や地域への貢献、国際社会の発展に寄与することを目指しました。国史、国文、国法の研究機関として「国学(=日本を学ぶ)」の大学として位置づけられています。
そして1920年には、早稲田大学、慶應義塾大学に次いで、日本の私立大学としては最も古い段階で大学令に基づく大学になりました。

なお、國學院大學には神職課程が設けられており、神社本庁の神職の資格が取得できます。
この資格を取得できる大学は國學院大學と皇學館大学の2つだけです。

参考)國學院大学

⑪ 渋谷氷川神社

渋谷氷川神社

氷川神社には素盞鳴尊、稲田姫命、大己貴尊、そして天照皇大神が祀られています。
起源はよくわかりませんが、慶長10年(1605年)に記録された「氷川大明神豊泉寺縁起」による伝説上では、景行天皇の皇子である日本武尊がこの地に素盞鳴尊を祀ったのが始まりとされています。
さらに嵯峨天皇の時代に慈覚大師が宝泉寺を開基し、それ以降、寺が神社の管理を行っていました。
神社の敷地は非常に広く、その範囲は江戸時代からほぼ変わっていないとされています。
また、「常盤松」と呼ばれる古い松の木が植えられていたとされます。
古来より祭礼として相撲が行われてきました。
その相撲は江戸郊外の三大相撲の一つとされています。
(他は大井鹿嶋神社、世田谷八幡宮)

國學院大学や渋谷氷川神社は、西側の渋谷川と東側のいもり川の間にある高台に立地しています。

参考)渋谷氷川神社

⑫ 金王八幡宮

金王八幡宮

金王八幡神社は、東京の渋谷にある神社で、応神天皇を祭神としています。
寛治6(1092)年、源義家が後三年の役の帰途に勧請したと伝わります。
金王八幡の名称は、武蔵渋谷氏の祖とされる渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)に由来すると云います。
金王八幡宮

金王丸は17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立て、その名を轟かせました。
続く平治の乱(1159)で義朝は敗れ、金王丸は、京に上り常磐御前に敗報した後、渋谷で剃髪し、”土佐坊昌俊”と称して義朝の御霊を弔いました。
源頼朝との交わりも深く、挙兵の折、密かに当八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。
元暦元(1184)年、平氏追討の源範頼軍の中にその名が見えます。

壇ノ浦の戦いの後、頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、討つよう昌俊(金王丸)に命じました。

「文治元年九月十七日六條堀川夜討之圖」(一寿斎芳員画 出典:ボストン美術館蔵)

「文治元年九月十七日六條堀川夜討之圖」(一寿斎芳員画 出典:ボストン美術館蔵)

文治元(1185)年10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜、義経の館(堀河御所)に討ち入りました。
しかし襲撃は失敗に終わりました(堀河夜討)。

金王丸が所持していた「毒蛇長太刀」は、神社の境内に保管されています。
この刀は、金王丸が戦いの中で「刃に触れる者が生きて帰ることはない」と言われたことから、その名が付けられました。
金王丸が17歳で出陣する際に自分の姿を彫った木像が納められています。
そして、この木像は、毎年3月の最終土曜日に開催される金王丸祭で特別に公開されます。

この渋谷川側の高台は、古くは渋谷城の跡とされます。
平安時代末期に谷盛庄を所領としていた秩父平氏・渋谷氏によって築城されました。

また、冲方丁の小説『天地明察』の主人公・渋川春海が算術の絵馬を見る場面が描かれますが、その場所が金王八幡宮でした。

参考)金王八幡宮


📕『天地明察』

■ 歩き終えて

広尾には、かつて原宿村の一部が存在しました。
それは笄川とその支流によって形成された、台地(武家地)と谷間(百姓地)に由来しています。
そのような、江戸時代の土地利用に大きな影響を与えた笄川。
現在は暗渠となっており、一般の感覚ではその存在自体に気がつきません。
しかし、笄川の水流を身近に確認できる場所の一つが、尾形光琳《燕子花図屏風》で名高い根津美術館・庭園です。
春に本物の燕子花とともに、水源を確認することをオススメします。
また堀河夜討という、頼朝と義経の不和が招いた歴史的事件の当事者が、土佐坊昌俊こと金王丸でした。
その所縁の神社が、渋谷川の削った高台に金王八幡宮として存在しています。
広尾、渋谷のまち歩きをぜひお楽しみください。

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■ 行き方
地下鉄日比谷線・広尾駅から

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くろひよ

\旅のトリコ、FIRE目指す/ 旅のトリコくろひよが、旅の魅力とFIREの過程を紹介するよ ★街を徘徊して見つけた都市の魅力が好物 ★歴史・地理・地形・建築・文化・アート・痕跡・再開発など ★同じくらいお金が好物(アッパーマス層に)

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