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【再開発最前線と二つの毛利家屋敷】六本木まち歩き【東京都】

2023年5月18日

六本木ヒルズ
*本ページはプロモーションが含まれています。

■概要

こんにちは!
くろひよです!
本日は六本木エリアをご紹介!

六本木は、明治維新以降、華族・高級官僚などの屋敷町、陸軍歩兵第一師団第三連隊(麻布新竜土町)などの用地に転用されました。
戦後、旧陸軍用地はアメリカ軍駐留施設となり、接収住宅には多くの外国人が住みました。
昭和39(1964)年の東京オリンピックの少し前からレストラン、バー、ナイトクラブなどが増加。
昭和60年代、乃木坂・六本木・飯倉辺りに若者たちが陽気に踊る六本木族も登場しました。
赤坂に接する地域の再開発が進み、またフィンランド、ニカラグア、スペイン、コンゴ、フィリピンなどの各大使館も立地し、国際化を先取りした繁華街となりました。
現在もなお再開発が進むこのエリア、六本木周辺をご紹介します。

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✔︎ 再開発が進む麻布台ヒルズ
✔︎ 乃木坂の由来となった乃木大将とは?
✔︎ 六本木のお墓と毛利家の庭園の共通点


 
六本木地形図

① 西久保八幡宮

西久保八幡宮

麻布台の東端に位置する神社。
品陀和気命(ホンダワケノミコト・応神天皇)、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト・神功皇后)、帯中日子命(オキナカツヒコノミコト・仲哀天皇)の三柱を祀ります。

寛弘年間(1004〜12)に、源頼信が、石清水八幡宮の勧請して、霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建。
長禄元(1457)年の太田道灌の江戸城築城に際し、現在地に遷されたと云います。

徳川秀忠正室の崇源院(江(ごう))は、慶長5(1600)年、家康・秀忠の関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願、社殿建立の遺志を残し、息子・家光の治世の寛永11(1634)年、社殿が造営されました。

祭礼では門ごとに軒提灯を下げ、牛車にのせた御輿が氏子中を練り歩いたと云います。
永井荷風は、日記に「西ノ久保八幡宮祭礼にて近巷賑かなり」「飯倉八幡宮の祭礼にて馬鹿囃子の音夜ふけまで聞こゆ」と記しました。
令和元年に境内整備事業「令和の御造替事業」が実施され、現在社殿や境内は装いを新たにしています。

西久保八幡宮は麻布台の高台にあります。

西久保八幡宮は麻布台の東側高台にあります。
標高約11m→21mの階段を登っていきます。

西久保八幡宮の境内から麻布台ヒルズを見上げる

境内裏からは、そびえ立つ再開発中の麻布台ヒルズ。
再開発で景観がだいぶ変わりました。

参考)西久保八幡宮

雁木坂
八幡宮の左手の坂を登っていきます。
雁木坂です。
雁木とは、鳥の雁が斜めに並んで飛ぶ様子が階段の形に見えることから、階段あるいはそれに似た形状を持つ構造のこと。
それを表現してか、敷石が直角に組まれています。

霊友会釈迦殿
霊友会(法華系の新宗教)釈迦殿を右手に、麻布台を登っていきます(標高約13m→26m)。
通りに出ると工事中の麻布台ヒルズ前に出ます。

② 麻布台ヒルズ

麻布台ヒルズ

麻布台ヒルズは、港区麻布台一丁目・虎ノ門五丁目・六本木三丁目に所在する複合施設。
2023年秋に開業の予定で、デベロッパーは森ビルです。

麻布台ヒルズ森JPタワーは、高さは325.19m(地上64階/地下5階)で、オフィス・住宅・医療施設・商業施設・インターナショナルスクールが併設される予定です。
麻布台ヒルズレジデンスは、住宅主体の高層ビル(262.83mと237.20m)になる予定。
麻布台ヒルズガーデンプラザは、3〜8階建ての建物4棟から成っている。
森JPタワーとガーデンプラザの間には、中央広場が設置されます。

トーマス・ヘザウィックによる建築設計

タワーの北東部の谷には、曲線が印象的な建物が続々と築かれています。
手掛けるのはトーマス・ヘザウィック。
英国で最も数多くの作品を手掛けるデザイナーの一人です。
ロンドンを拠点とし、ロンドンのグーグル新本社、走行中に空気を浄化する電気自動車「エアロ」など、10カ国で30以上ものプロジェクトを手掛けています。
完了したプロジェクトには、グーグル社が初めて自ら設計した新社屋「グーグル・ベイ・ビュー」、ニューヨークのハドソン川にある公園と野外劇場を兼ねた「リトル・アイランド」、ケープタウンの「ツァイツ・アフリカ現代美術館」、ロンドンのキングス・クロスの新しい大型商業地区「コール・ドロップス・ヤード」などがあります。

ヘザウィックの作品については、こちらをどうぞ。

郵政省本庁舎(2019年)

麻布台ヒルズ森JPタワーができた場所には、日本郵政グループ飯倉ビル(郵政省本庁舎)がありました。
昭和5(1930)年に竣工した旧逓信省貯金局庁舎で、昭和18(1943)年から逓信省本庁舎として、そして昭和24(1949)年から昭和44(1969)年まで、旧郵政省が郵政省本庁舎として使用していました。
平成19(2007)年の郵政民営化後は、郵便局株式会社が所有していました。
日本郵政グループ飯倉ビル跡地

デザインにかつての郵政省本庁舎の雰囲気が残されています。

また、麻布台ヒルズレジデンス及び麻布台ヒルズガーデンプラザの開発地は、かつて我善坊谷と呼ばれる窪地・谷間があり、住宅や商店が建ち並んでいました。

我善坊谷(2019)

工事が始まった頃の姿。

我善坊谷(2019)

再開発前の今は見れない姿です。

参考)
麻布台ヒルズ
トーマス・ヘザウィック展

麻布台ヒルズ森JPタワーの南側には、ロシア連邦大使館があります。
ロシア大使館の西側の坂が「狸」と書いて「まみ」と読む、狸穴坂です。
これを降りていきます(標高約26m→9m)。

③ 狸穴坂(まみあなさか)

狸穴坂

明暦3(1657)年の新添江戸之図によれば、市街はなかったと云います。
江戸期の記録によれば...
・谷間に木立などがあり、魔魅(江戸惣鹿子・御府内備考)の棲む土地の意味で名付けられた(文政町方書上)
・マミとはアナグマのことでタヌキとも混同された(石原正明年々随筆・港区史)
・間歩(まぶ。採鉱坑道)があり、享保6(1721)年に黄金のような雲母らしい砂が出た(南留別志・麻布区史)
延宝6(1678)年頃には、付近が甲斐甲府藩・徳川綱重(家光の三男・家綱の弟)下屋敷になりました。

狸穴公園
狸穴を進むと、池ある狸穴公園。
標高7mほどの谷間にあります。

狸穴坂から再び麻布台ヒルズ前の通りに戻り、西に進むと小さな洋食店があります。
キャンティ(CHIANTI)

キャンティ(CHIANTI)は、1960年(昭和35年)創業の港区麻布台3丁目のイタリア料理店。
各界著名人が利用するレストランとして知られます。
店内にはヨーロッパのサロンのような自由闊達な雰囲気があり、オーナーの川添夫妻の人脈を介して映画監督、作家、音楽家、デザイナーなど各界の文化人が交流したと云います。
常連客には、安井かずみ、加賀まりこ、コシノジュンコ、かまやつひろしらから、三笠宮殿下や島津久永、島津貴子御夫妻など皇族関係者までが含まれたそうです。
1階がカフェ「アル・カフェ」、地下がイタリアンレストラン「キャンティ」、2階がバー「キャンティシモ」となります。

参考)CHIANTI

キャンティ飯倉本店に面した路地に入っていきます。
すると、谷地形に似合わぬ、欧風の白い壁の住宅に出会います。
和朗マンション

ヴィンテージ賃貸住宅となっているスペイン村です。
和朗マンション四号館は、昭和11(1936)年に建設された賃貸アパート。
建主がアメリカのアパートメントホテルに着想を得て自ら設計したもので、文化庁の登録有形文化財になっています。
ひなぎくきつね」という月3日だけ営業するというカフェや、芸術家のアトリエがあります。

飯倉片町交差点をわたって、外苑東通りを西に進みます。
地下通路

このとき、地下通路を通って交差点を渡ることをお勧めします。

地下通路

なんと...

首都高都心環状線

地下通路のさらに下を首都高都心環状線(C1)が走っています。

SIX WAVE ROPPONGI
SIX WAVE ROPPONGIの波打つ特徴的な店舗から、道路を北に渡って路地に入ります。

丹波谷坂

進むと交差するのが丹波谷坂。
明治時代に坂がつくられた際に命名されました。
江戸時代に旗本岡部丹波守の屋敷が置かれ、坂下を「丹波谷」と読んでいたことにちなみます。
西へ丹波谷を降りていくと、谷底にはビル群に囲まれた墓地が見えてきます。

④ 六本木墓苑

六本木墓苑
繁華街の裏側に残るスリバチ状の谷底に残る墓地。
六本木墓苑は、戦後の道路拡張に伴って、正信寺・深広寺・教善寺・光専寺・崇巌寺の浄土宗五ヶ寺の墓地を、崇巌寺の跡地に集約した共同墓地です。
崇厳寺は戦災で焼失し復興されませんでした。

共同墓地の周囲をぐるりと一周。

リサイクルされる墓石

墓地の周囲の側壁には、なんと墓石がリサイクルで使われています。

閻魔坂付近

閻魔坂を下り、西側のバーレスクがある路地を登ります。
さらに、六本木通りを北側に渡って、路地を進むと、東京ミッドタウンです。

⑤ 東京ミッドタウン

東京ミッドタウン

東京ミッドタウンは、港区赤坂九丁目に所在する三井不動産の複合施設です。
防衛庁本庁檜町庁舎跡地の再開発事業として、2007年3月30日に開業。
超高層ビル「ミッドタウン・タワー」は、地下5階・地上54階の高さ248.1 m。

東京ミッドタウンに含まれる施設には、ホテル「ザ・リッツ・カールトン東京」(タワー53階)、赤坂見附から移転した「サントリー美術館」(ガレリア3階)、アメリカのジョンズホプキンス・メディスンと提携する「東京ミッドタウン・クリニック」(タワー6F)などがあります。

参考)東京ミッドタウン

東京ミッドタウンの背後、北東側の低地に広がる檜町公園に向かいます(標高約30m→20m)。

⑥ 檜町(ひのきちょう)公園

檜町公園

檜町公園は、江戸時代は長門萩藩・毛利家下屋敷があったところで、庭園は「清水園」と呼ばれ、江戸の大名屋敷の中でも名園のひとつでした。
また檜(ひのき)の木が多かったことから「檜屋敷」とも呼ばれ、後の「檜町」という地名の由来にもなりました。
また、東辺には檜坂もあり、さらに下を清水谷といいます。

明治時代になり毛利家の屋敷一帯は、1874(明治7)年に第1師団歩兵第1連隊の駐屯地となりました。
また、第二次大戦後の1945(昭和20)年に米軍の接収を受け、その後1960(昭和35)年に敷地の大部分に防衛庁が設立されました(霞ヶ関より移転)。
そして、残りの敷地が檜町公園として整備され、1963(昭和38)年に都立公園として開園。
1968(昭和43)年に港区へ管轄が移行。
2000(平成12)年に防衛庁(現防衛省)が市ヶ谷に転出し、2007(平成19)年に東京ミッドタウンが開発されたのを受け、檜町公園も再整備され景観が大きく変わりました。
檜町公園の池泉回遊式庭園

スリバチ地形を生かし池泉回遊式庭園も整備され、訪問者の憩いの場になっています。

檜町公園の四阿から
四阿から見た池も絵画のように美しいです。

檜町公園から西に向かいます。
21_21 DESIGN SIGHT
安藤忠雄が建築設計を担当したデザイン施設「21_21 DESIGN SIGHT(トゥーワン・トゥーワン・デザインサイト)」を通り抜け、西側の崖を降りていきます。

⑦ いのちの樹林

いのちの樹林

崖を降りていく際の左手には、いのちの樹林と呼ばれる谷間の公園があります。
(あまり中には入れません。)
生長の家が管理している森です。
そこを抜けると乃木坂に出ます。

乃木坂

乃木坂は三方を台地に囲まれたスリバチ地形です。
その北側台地には、坂の名の由来となる旧乃木邸と乃木神社があります。
(古くは「幽霊坂」と呼ばれた。1912年の乃木大将の葬儀の際に改名。)

⑧ 乃木神社・旧乃木邸

乃木神社

乃木希典は、その死後「聖雄」「軍神」として語り継がれ神格化された明治時代の軍人です。
嘉永2(1849)年に長府藩士・乃木十郎希次の第三子として江戸の毛利家上屋敷にて生まれます。
松下村塾を開き、吉田松陰の師であった玉木文之進に弟子入り。
慶応元(1885)年に長府藩報国隊に参加し、翌二年に奇兵隊に合流して幕府軍と戦闘(第二次長州征討)。
明倫館文学寮で学び、戊辰戦争には不参加でした。
維新後の明治2(1869)年に伏見御親兵の兵営に入営し、引き続き軍人として生きます。
明治4(1871)年に陸軍少佐。

明治10(1877)年、西郷隆盛を盟主とした最大にして最後の士族反乱・西南戦争。
この戦に参加するも、軍旗を喪失してしまいます。
この間、弟・玉木正誼が萩の乱で前原一誠に加担し戦死(玉木文之進も反乱に加わった門弟たちの責任をとるため自刃)。

明治11(1878)年、鹿児島県士族である湯池定之の四女・静子と結婚します。
明治18(1885)年に陸軍少将。
明治19(1886)年、川上操六とともにドイツへ留学。
帰国後、軍紀確立などに関する報告書を提出し、留学前の放蕩生活と訣別。
軍紀を体現して生きることをみずからに課したと云います。
一般的な乃木大将の質実剛健のイメージはこのあたりから生まれたのでしょうか。

明治27(1894)年日清戦争では、歩兵第一旅団長として旅順を攻略。
明治28(1895)年に陸軍中将、男爵。
明治29(1896)年に台湾総督。
明治31(1898)年に第十一師団長。

そして、明治37(1904)年の日露戦争。
第三軍司令官として旅順攻撃を指揮。
しかし、そこで多くの将兵を失い、勝典・保典の二人の息子も戦死しています。

明治39(1906)年に軍事参議官。
明治41(1908)年に学習院院長を兼任し「尚武教育」による学習院改革を実施。伯爵。

大正元(1912)年9月13日。
明治天皇大喪の日。
東京赤坂新坂町の自邸で妻静子とともに自殺しました(64歳)。
「殉死」は世界的話題となり、夏目漱石などの文学に影響を与えるとともに、その忠節心から、那須・京都・函館・東京・長府・善通寺などの乃木所縁の地に神社が創建されていきました。

旧乃木邸

乃木邸のある高台からは東側の低地が見渡せます。
高台の南側の場所には、ジャニーズ事務所。
そこから、国立新美術館の東側にあたる路地を進むと、小さな神社があります。

参考)
乃木神社
乃木邸

⑨ 龍土神明宮 天祖神社

龍土神明宮 天祖神社
神社のある場所は若干窪地となっており(標高約30m→26m)、西麻布の南西方向にかけて谷が形成されていて、その上流にあたる場所です。
テレビ番組で掘られたという井戸からは水が出ます。

六本木西公園
六本木西公園(六本木の地名にちなんで6本の木をイメージしたモニュメントが設置)を南へ抜けます。

⑩ 六本木ヒルズ

六本木ヒルズ

六本木ヒルズは、港区六本木にある2003年に開業した複合商業施設。
東京を代表するランドマークの一つであり、観光客やビジネスマンに人気のスポットとなっています。
高さ238m、54階の高層オフィスビル・森タワーを中心に、集合住宅(六本木ヒルズレジデンス、ゲートタワーレジデンス)、ホテル(グランドハイアット東京)、テレビ朝日本社、映画館(TOHOシネマズ)をはじめ、文化施設(森美術館)、その他の商業施設等で構成されています。
最上階には展望施設「東京シティビュー」があり、東京都心を一望できます。

この巨大な複合施設には、世界の名だたる建築家が関わっています。
六本木ヒルズ森タワー

六本木ヒルズ森タワー、グランドハイアット東京、けやき坂コンプレックスの建築デザインは、KPF(コーン・ペダーセン・フォックス・アソシエイツ。アメリカを代表する建築設計事務所)のウィリアム・ペダーセンが担当しました。
続する商業施設

またヒルズ内の各建物の低層部に連続する商業施設は、空間演出で世界的実績を誇るJPI(ジャーティ・パートナーシップ・インターナショナル)のジョン・ジャーディが手掛けました。

六本木ヒルズレジデンス

ライムストーンとテラコッタの天然石を使用した六本木ヒルズレジデンスは、C&P(コンラン・アンド・パートナーズ)のテレンス・コンランが担当。

毛利庭園とテレビ朝日

また、ガラスとルーバー(羽板)に覆われた透明のテレビ朝日本社は、建築家の槙文彦の設計。
巨大なクモの彫刻「ママン」

なお、インパクトある巨大なクモの彫刻「ママン」は、パリ出身でアメリカの彫刻家ルイーズ・ブルジョワによって製作されました。
カナダのオタワにあるカナダ国立美術館など世界中で展示されています。

麻布日ヶ窪町(現在の六本木6丁目)には、江戸時代、長門府中藩毛利家の藩邸がありました。
嘉永12年(1849年)に生まれた乃木希典が幼年期を過ごした場所です。
明治時代には法律家・増島六一郎(中央大学の創立者)の邸宅。
戦後は昭和27(1952)年にニッカウヰスキーの工場。
そして、昭和33(1958)年には日本教育テレビ(後のテレビ朝日)の敷地でした。

北側に六本木通り、北側から東側にかけて環状3号線、西側にはテレビ朝日通りと呼ばれる補助10号線と幹線道路に挟まれた位置にあり、中央には現在のテレビ朝日の敷地が広がっていました。
西側や北側には、昭和40年代に建てられた中小のビルが立ち並び、南側の住宅地は、昭和33年に日本住宅公団によって分譲された5棟116戸の公団日ヶ窪住宅と、木造を中心とした低層住宅地で構成されていました。
窪地跡
日ヶ窪の名のとおり、住宅地があった場所は、テレビ朝日が海抜31mなのに対して、最大15mほど落ち込んだ窪地でした。
開発のときに窪地を埋めており、その痕跡が残っています。
窪地跡
階段が埋まっています。
住宅地内の道路は、幅員3m前後の狭い道路で、消防車が入れないという防災上の課題を抱えた地域でした。
再開発計画の立案後、バブル崩壊や反対派住民による抵抗などの紆余曲折があり、完成までには約17年の歳月を要したと云います。

参考)六本木ヒルズ

⑪ 毛利庭園

毛利庭園

毛利庭園は、4,300㎡という広大な敷地にある大名庭園で、池を中心とした池泉回遊式庭園です。
再開発によって立ち入ることが可能になりました。
慶安3(1650)年、毛利元就の孫・秀元が、麻布日ヶ窪の地に上屋敷を設けました。
その後、元禄15(1702)年の吉良邸討ち入り後、赤穂浪士・岡島八十右衛門ら10人が毛利家に預けられ、最期を遂げた場所でもあります。
元治2年(1865年)には堀田相模守がこの日ヶ窪屋敷を拝領。
明治20(1887)年、中央大学の創始者である増島六一郎が自邸として取得。
庭園を「芳暉園」と名付けました。
大正8(1919)年「乃木大将誕生地」として、旧跡指定(現東京都旧跡)。
昭和18年「毛利甲斐守邸跡」として旧跡指定(現東京都旧跡)。
昭和27年にはニッカウヰスキーの東京工場となり、昭和52年にはテレビ朝日が当地を取得。
池は「ニッカ池」と通称されていました。
しかし、この池の姿は現在見ることができません。
ニッカ池は現在の毛利池の下に隠れているためです。
将来のさらなる発掘調査などの可能性を残すため、ニッカ池の池底を固めるとともに周辺の地盤改良を行い、防護シートで覆い、歴史的遺産としての将来性を担保し埋土保存してあります。


📕東京散策のおともに

⑫ けやき坂

けやき坂

六本木ヒルズの中心部を東西に横切る、けやき坂通り。
再開発によって新しくつくられた通りです。
通り沿いには、高級ショップやアート作品が点在するオシャレな雰囲気。
かつては、坂や崖の多い住宅密集地でした。
古くから良質な湧き水に恵まれていたため、江戸時代にはその水を利用して金魚の養殖が行われたと云われます。。
天保年間創業の金魚卸商が、再開発工事の直前まで営業を続けていたという話があります。

参考)欅坂46

⑬ さくら坂

けやき坂の一本南側に並行するさくら坂。
75本の桜が植えられ、春は桜のトンネルになります。

さくら坂公園
さくら坂公園にはたくさんの子どもたち。
トーテムポールは、チェ・ジョンファ(ソウル在住の現代アーティスト。十和田市現代美術館のフラワーホースなど有名)が制作したパブリックアート《ロボロボロボ》。
人気の10台が連なった滑り台、ロボットのスプリング遊具、ローラーコースターなどもチェ・ジョンファによるものだということです。

参考)櫻坂46

■ 歩き終えて

我善坊谷の谷間や麻布台の高台で再開発が進む麻布台ヒルズ。
かつての地形の名残がなくなってしまうのは寂しさを感じます。
同時に、どんな姿に生まれ変わるのか楽しみな部分でもあります。
また、毛利家の大名屋敷はなぜこんなに残されているのでしょうか。
乃木希典が毛利家の屋敷で生まれたのは、今回調べていて初めて知りました。
六本木の墓苑は、繁華街ビルとのコントラストを強く感じる場所。
墓苑も大名屋敷も谷間に形成されたという共通点があります。

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■ 行き方

神谷町駅からスタート
六本木駅でゴール

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くろひよ

\旅のトリコ、FIRE目指す/ 旅のトリコくろひよが、旅の魅力とFIREの過程を紹介するよ ★街を徘徊して見つけた都市の魅力が好物 ★歴史・地理・地形・建築・文化・アート・痕跡・再開発など ★同じくらいお金が好物(アッパーマス層に)

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