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◾️はじめに
こんにちは
くろひよです!
現在、オフィスが立ち並ぶ東京のビジネス街である日比谷・新橋。
さらに築地の周辺は、江戸時代は数多くの堀割や河川網が張り巡らされ水運が盛んなエリアでした。
またその大部分は、海であった部分を埋め立てにより土地を拡張してきた場所です。
往時の姿を想像することは難しいですが、江戸時代の埋立の歴史や川跡を辿りながら、かつての姿を辿っていきたいと思います。
✔︎ 外濠川、汐留川、築地川...江戸の水脈の痕跡とは?
✔︎ 築地に残る異国情緒の理由とは?
①日比谷見附
日比谷公園の北東角には江戸城の石垣が残されています。
ここは日比谷見附の跡。
「見附(見付)」とは、城郭の要所に置かれた升形門の外側で警固する番兵の見張り場で、日比谷見附は江戸城の見附のひとつです。
俗に江戸城には「三十六見附」があったと云われています。
しかし、具体的にどこが36門なのかは、明らかではありません。
(また正式には「御門」という呼び方をしています。)
見附のほとんどが堀に架けられた橋にあり、武士だけでなく町人や、物資が出入りする交通の要所となっていました。
江戸時代中期以降の安定期には、外濠沿いの赤坂・四谷・市ヶ谷・牛込・浅草など町人地に近い見附周辺は、町人地の中心として発展してきました。
②日比谷公園
日比谷見附がある日比谷公園は、1903(明治36)年、林学者・本多静六の設計によって日本初の洋式公園として開園しました。
本多清六は、明治神宮の鎮守の杜の造営に関わるなど日本の「公園の父」といわれています。
また「月給4分の1天引き貯金」の提唱者で、貯金を株や公共事業に投資して巨万の富を築きました。
「経済の自立なくして自己の確立はない」、「職業の道楽化」、「見栄を捨て生活を合理化する」など現在に十分通用する資産形成の要諦を説いています。
さて、この場所。
江戸時代初頭には、「日比谷入江」という海の一部でした。
ちょっと想像しづらいですが、確かに若干土地が低くなっているのです。
徳川家康の埋立によって造成された場所です。
その造成地には、大名藩邸が置かれるようになります。
幕末には、西側に長州藩、東側に佐賀藩の藩邸が置かれていました。
明治になると日比谷操練所(のち練兵場)ができ、近代陸軍発祥地となりました。
開園後は、国民の集会や行事に利用されました。
国会議事堂が近く、市民の政治活動の舞台となり、1905(明治38)年の日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)に反対した人々による「日比谷焼打事件」の舞台となりました。
③日比谷入江
江戸時代初頭まで千代田区東部にあった海、日比谷入り江。
現在の「日比谷濠」や「馬場先濠」など、この辺りの地形的な窪みは日比谷入江の海だった頃の名残です。
日比谷入江の西は、武蔵野台地の東端である本丸台地の「江戸城」。
北は「平川」(のちに東回りに流路を変え日本橋川や外濠川となる)が流れ込む低湿地帯。
東は、現在の山手線沿いに延びる半島「江戸前島」(銀座の南北に伸びるメインストリート)でした。
日比谷入江は軍港として利用されていました。
(一方、江戸前島の東海岸にあった江戸湊は商港として利用されてきました。)
しかし、1592(天正20)年「西の丸」の築城工事の残土で埋立てが始まり、1603(慶長8)年から本格化し、造成地に大名屋敷が築かれるようになったのです(漁民は京橋と芝口に移住)。
丸の内1丁目から皇居外苑に入る「和田倉門」の「和田」は、「ワダ(海)」を意味し、当時「海に面した倉庫」があったことに由来します。
また皇居の白鳥濠付近の「汐見坂」は、「海(=日比谷入江)の見える坂」を意味します。
④日生劇場(日本生命日比谷ビル)
日比谷公園の東側に足を向けると、日生劇場です。
日本生命保険相互会社の創業70年記念事業として村野藤吾が設計しました。
村野の代表作として、重要文化財に指定された宇部市渡辺翁記念会館(1937年築)や世界平和記念聖堂(1953年築)があります。
日生劇場は1、2階に客席があり、中2階にはグランド・サークルと称するバルコニー席を設けた洋風劇場となっています。
従来の商業演劇や新劇とも異なる新しい演劇形態を目ざしましたが行き詰まり、65年から劇団四季と提携してジロドゥー作・浅利慶太演出『オンディーヌ』などのヒットを生みました。
その後70年に自主制作を中止。
松竹・東宝・四季を相手とする貸し事業が主となっています。
⑤外濠川
日生劇場からさらに東へ進むとJRの高架橋に突き当たります。
この辺りで日比谷入江の低地から、江戸前島の高台へと切り替わります。
(上りの勾配を感じることができます。)
この境界付近を北から南へと、外濠川が流れていました。
外濠川はかつて、北は呉服橋交差点付近で日本橋川から分流し、東京駅八重洲口前を南下し、内幸町駅付近の土橋交差点あたりで西から流れてきた汐留川と合流していました。
首都高速八重洲線の地下車道が走っている区間に相当します。
開削時期は、家康の関東入国の平川移設の頃、もしくは開幕後の天下普請で日比谷入江埋立の頃とされています。
その後、外濠川の西側は譜代大名の上屋敷が軒を連ねる武家地、東側は町人地として使用されてきました。
江戸時代より水運として機能してきた外濠川ですが、戦後の瓦礫処理のために埋め立てが進行して消失しました。
一方、外濠の西側半分には外濠の水面が残っています。
飯田橋から四谷間の牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠。
赤坂見附付近の弁慶濠には、水面が残っています。
なお、外濠西側の埋め立て場所は、JR線路、道路、飯田橋駅、公園、上智大学グラウンドなどに転用されています。
⑥日比谷OKUROJI
JRの高架橋を潜る途中、外濠川に沿うように南北に地下空間が広がります。
ベルリンの高架橋をモデルに1910年より使用が開始された鉄道高架橋の煉瓦アーチ。
これを生かした300mの高架下空間「日比谷OKUROJI」には、レストランやバーなどの飲食店や雑貨店が立ち並びます。
イベントも開催されるオシャレな空間に生まれ変わりました。
参考)日比谷OKUROJI
⑦汐留川跡(土橋交差点)
日比谷OKUROJIの地下通路を南に抜けると、土橋交差点に辿り着きます。
現在は埋め立てられていて分かりませんが、この場所は、北からの外濠川と西からの汐留川の合流ポイントでした。
汐留川は、土橋交差点から西側の特許庁付近にあった「溜池」の落し口(小さな滝)からの水路を源流に、東へと虎ノ門、幸橋門などを通って外濠川と合流し、浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)、東京湾へと注いでいました。
虎ノ門から幸橋までは明治時代に埋め立てられ、建築用地に転用。
土橋から下流は1951(昭和29)年から埋め立てられ東京高速道路の用地となり、水面が残るのは最下流部(浜離宮庭園西縁および南縁)約900mだけとなっています。
汐留川の名残を残す遺構としては、霞が関コモンゲート(文部科学省)の敷地内に濠の石垣や、銀座線虎ノ門駅の「江戸城外堀跡地下展示室」があります。
(こちらをご覧ください。)
⑧新橋の親柱(銀座ナイン)
汐留川跡を辿って、土橋交差点を東へと進みます。
地名や駅名の由来となっている「新橋」の親柱に行き着きます。
親柱とは、橋の四隅にある柱のことで橋のシンボル。
親柱は銀座ナイン(汐留川の上に立地)のすぐ傍にあり、「新橋」の欄干が再現されてるのがわかるでしょうか。
「新橋」は、汐留川(新橋川)に架かっていた橋が地名の由来となっています。
なお、ここは江戸前島の尾根筋にあたり、北上すれば銀座4丁目交差点や日本橋、南下すれば東海道に至ります。
地名の呼び名では、江戸時代は、北の銀座側を新橋と呼んでいました。
しかし明治に入ると、1872(明治5)年に日本初の鉄道が開業し、旧新橋駅(1914年汐留駅に改称)が設けられてから、南の港区側を新橋と呼ぶようになりました。
江戸時代に市街地となり、現在の新橋駅西口の烏森は、茶屋、芸妓屋の多い花街として栄えました。
現在は銀座の延長として、サラリーマンの街として飲食店街を中心に賑わっています。
親柱を通り越して、さらに東へ。
三十間堀が北から汐留川に合流します。
しかし、こちらも埋め立てられていて分かりません。
地形的な凹凸を感じるのみ。
⑨新橋停車場跡
ここで南側に道路を渡って歩みを進めると、新橋停車場跡が再現されています。
現在の新橋駅は、1909(明治42)年に設置された烏森駅が、1914(大正3)年に開設された東京駅の設置に合わせて「新橋駅」と改称された駅です。
一方、日本初の鉄道駅である旧新橋駅は、1914年から「汐留駅」として貨物専用駅として活躍しましたが、1986(昭和61)年に廃止されていました。
しかし、旧新橋駅の駅舎基礎・ホーム一部・ゼロマイル標識は国の史跡として保存され、再開発に伴い「旧新橋停車場」が再現されたのです(2002年着工。2003年完成)。
屋内は展示スペースになっています。
さらに、再開発地区に2002年(平成14)都営地下鉄大江戸線、新交通システム「ゆりかもめ」の「汐留駅」が再設置されました。
⑩築地川跡
新橋停車場跡から東へ区立銀座中学校を越えて、国立がんセンターの敷地(海軍兵学寮跡、海軍軍監学校跡だった)へと歩みを進めます。
がんセンターの西側には、一段低い場所を首都高速道路が走っています。
そこが築地川の川跡。
この場所は江戸時代初期、江戸前島より東の海にあたります。
そこに土地が造成され、運河部分が築地川になったと考えられています。
往時の築地川は、現在の隅田川の明石町付近(明石堀)から入船橋、中央区役所付近、首都高速都心環状線に沿い、浜離宮恩賜庭園の東側を通って隅田川に合流していました。
1930(昭和5)年に関東大震災の帝都復興事業により、現在の京橋から中央区役所付近までを連絡する楓川・築地川連絡運河が開削。
しかし、1960年の築地川本流の大部分の埋め立てなどの結果、水面は河口付近に750m程残っているのみとなってます。
⑪築地場外市場
築地は、1657(明暦3)年の明暦の大火の後、低湿地を埋め立てて造成されました。
大火直後に西本願寺が移転。
海岸沿いの町人地を除き、尾張藩や岡山藩の中屋敷など武家地が中心でした。
1857(安政4)年に、この地に軍艦操練所が創設されます。
明治以後も尾張藩邸跡地に軍港が設けられ、海軍兵学寮・海軍軍医学校・海軍経理学校が建設されるなど海軍関連のエリアとなりました。
また、1868(明治元)年に鉄炮洲(築地の海岸、明石町辺)に「外国人居留地」が開かれ、軍艦操練所跡地には東京で最初の洋風建築のホテル「築地ホテル館」が建設されました。
明治32年に居留地は廃止されましたが、外国人宣教師の布教の場であり、教会や学校が建てられたことから異国情緒溢れる場所でした。
この外国人居留地が、立教大学や慶応義塾の発祥となっています。
1923(大正12)年の関東大震災によって江戸時代から続く「日本橋魚河岸」はその幕を閉じました。
その後、海軍兵学校跡地に、日本橋から魚市場が移転。
暫定の魚市場として始まったのが築地市場の始まりです。
そして、昭和10年に東京都中央卸売市場が開設され、築地場外市場もこれに連続して成立しました。
日本最大の生鮮食料品を流通させる一大拠点となった築地市場ですが、建物の老朽化などにより再整備・移転が検討され、平成30年に「豊洲市場」に移転しました。
とはいえ、築地場外市場は現在も多くの観光客やインバウンドで賑わっています。
参考)築地場外市場
⑫築地本願寺
浄土真宗本願寺派の別院で築地別院とも呼ばれます。
1617(元和3)年に本願寺十二世・准如が開創した江戸浅草御堂を、明暦の大火の後に八丁堀海上を埋め立てた「築地」に移転しました。
現在の建物は、1923(大正12)年の関東大震災で寺院が焼けたため、1934(昭和9)年に伊東忠太の設計により再建されたものです。
伊東忠太は、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した建築家・建築史家です。
法隆寺の柱の膨らみをギリシア建築のエンタシスが伝播したものと主張し、「Architecture」の訳語をこれまでの「造家」から「建築」に改めた人物。
日本建築のルーツを訪ねるため、アジアへの留学を選び、中国からインド・トルコなどを調査しました。
この間、中国で世界文化遺産になっている雲岡石窟を発見しています。
参考)伊東忠太のアジア調査
築地本願寺は、ストゥーパに代表される仏教の源流であるインドの様式を取り入れ、一方で当時は新しい技術であった鉄筋コンクリート造りを採用するといった特徴を持っています。
現存する伊東忠太の作品として、震災記念堂(墨田区)、大倉集古館(港区)、一橋大学兼松講堂(国立市)、祇園閣(京都市東山区)などがあります。
⑬築地川公園
築地本願寺の東側背後には、「築地川南支川」が流れていました。
この流路は、現在の中央区築地川公園にあたります。
公園内には埋立以前の橋の位置が示されています(備前橋、堺橋、暁橋)。
⑭聖路加国際病院
築地川南支川の東側の一角に向かうと石碑があります。
ここには、赤穂事件の当事者である浅野内匠頭の上屋敷がありました。
そこに現在あるのが聖路加国際病院です。
1901(明治34)年に米国聖公会の医師ルドルフ・トイスラーにより設立。
1914(大正3)年に大隈重信が国際病院設立評議会の会長、後藤新平、渋沢栄一、阪谷芳郎が副会長を務め、ウィルソン大統領夫人からも寄付があるなど、日米の政財界から多くの支援を受けました。
1995(平成7)年の地下鉄サリン事件では、当時の院長・日野原重明の指示により、最大の被害者受け入れ先病院となりました。
病院内に教会施設があることも設立経緯から納得できます。
⑮カトリック築地教会聖堂
聖路加国際病院の北側の一角には、白亜の小さな教会。
その歴史は、1873(明治6)年のキリシタン禁制の高札撤去に合わせて、パリ外国宣教会の宣教師ジャン・マリエ・マランが聖堂建設に着手したことに始まります。
翌年、東京で最初のカトリック教会として献堂式が行われ、宣教の中心地となりました。
しかし、1923(大正12)年の関東大震災により聖堂が焼失・倒壊。
1926(大正15)年に新聖堂の建設が始まり、翌年に献堂されました。
現在の聖堂は、古代ギリシアのドーリア式神殿を模した木造モルタル造にて建設されています。
◾️歩き終えて
日比谷公園の周辺は、江戸時代初頭まで「日比谷入江」という海が入り込んでいました。
その痕跡は、「日比谷濠」やその北の「馬場先濠」、地名にも残されており、大手町付近まで海が入り込んでいたことがわかります。
また数々の江戸の水脈を辿ってきました。
東京駅八重洲口から内幸町駅方面へと流れていた「外濠川」は、日比谷OKUROJIでレトロな雰囲気を醸し出していた、鉄道高架橋煉瓦アーチの横を流れていました。
「汐留川」は、溜池のあった虎ノ門方面から流れ込み、新橋の親柱が流路の痕跡になっています。
埋立地にあった「築地川」は、一段低いところを走る首都高速道路のカーブから流路が感じとれました。
築地は、海軍の要衝として、外国人居留地として、そして日本橋からの魚河岸文化を受け継ぐ場所としての歴史を持っています。
そこから病院や教会、ホテル、ミッション系大学など新たな文化が生まれるとともに、築地本願寺もまたインド様式という異国情緒を漂わせます。
築地場外市場に集う多くの外国人旅行者を見ると、築地の特徴を象徴しているかのようです。
江戸の水脈を感じながら、このルートを楽しんでもらえればと思います。