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■概要
こんにちは!
くろひよです!
本日は虎ノ門エリアをご紹介!
虎ノ門は、東京都港区の商業施設の超高層ビルなどが集中する大規模なオフィス街。
地名の由来である「虎ノ門」とは、明治6(1874)年まで存在した江戸城外堀(現在の虎ノ門交差点附近)の城門のこと。
城門の前の土橋は、外堀の水の流れをせき止めるダムの役割も兼ねており、赤坂見附から虎ノ門にかけて溜池を形成していました。
溜池から分流させた桜川の跡を追いながら、周辺をご紹介していきます。
✔︎ オフィス街を流れる古の桜川とは?
✔︎ 愛宕神社、増上寺、東京タワー...東京のランドマークと地形の関係は?
①史跡江戸城外堀跡石垣&「地下展示室」
武蔵野台地の東縁にある江戸城の東に、日比谷入江が入り込んでいました。
徳川家康が江戸に入府した後、埋め立てられ、江戸は東へと陸地を伸ばしてきました。
皇居付近を中心に東西に高低差(約2m〜約30m)があるのはそのためです。
武蔵野台地の東縁は江戸城外堀跡の石垣が残る場所の一つ。
石垣の外縁部には、赤坂見附から虎ノ門へと、現在も地名として残る「溜池」の水が張られていました。
現在では埋め立てられ道路やビルに囲まれていますが、西から東へと標高7mから3mと低くなっていくことから、水の流れが予想されます。
これら石垣は、徳川家光による寛永13(1636)年の天下普請の総仕上げ。
江戸幕府が全国の大名を動員して築いたもので、江戸城の総構が完成します。
石垣には担当した大名家の印が刻まれています。
左下の矢印のようなマークは毛利家のもの。
地面にも石垣がデザインとして埋め込まれています。
虎ノ門駅「江戸城外堀跡地下展示室」には、この幕府の大事業についての詳細な解説があるのでオススメです。
参考)史跡江戸城外堀跡石垣
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②霞が関ビルディング
霞が関ビルディングは、三井不動産が所有する千代田区霞が関3丁目にある地上147mの超高層ビル(地上36階・地下3階のオフィス・商業複合施設)。
1960年代に建築基準法をはじめとした制度や法律の改正が行われ、高さ31mを超える高層ビルの建築が可能になり、昭和43(1968)年に竣工した日本最初の超高層ビルです。
(昭和45(1970)年竣工の世界貿易センタービルに抜かれるまでは、高さ日本一でした。)
この記念的高層ビルは、武蔵野台地の高台にあり、まさに江戸城南東の外堀石垣が築かれた位置の内側にあります。
参考)霞が関ビルディング
③江戸城外堀跡溜池櫓台
霞が関ビルディングの通りを挟んだ南側に、溜池櫓台の痕跡が残っています。
江戸城の外堀縁、文部科学省の外堀通りを挟んで向かいにあるのが「溜池櫓台跡」です。
かつて、江戸城外堀に3つ設けられた隅櫓のうちの1つで、西側に広がる溜池全体を見下ろすことができる位置にありました。
1636年に因幡鳥取藩主・池田光仲によって構築されました。
筋違門、浅草門にあった2つの隅櫓は取り壊されてしまいましたが、ここだけが現存。
明治時代になると溜池及び堀は埋められ、かつてを偲ぶ遺構は、文部科学省構内に残る石垣と隅櫓跡だけです。
④水番所跡
アメリカ大使館の北側の道(榎坂)を挟んだ一角には、溜池の水を南側の桜川へと分水させた水番所がありました。
小高い緑の丘があり、お洒落な飲食店があるあたりです。
⑤桜川跡
溜池を南側に分水させた桜川は、跡をたどるのは困難です。
先学によれば、桜川は、虎ノ門病院の南を東側に向かって東海道を横切り、虎ノ門ヒルズを北から回り込んで、南へと方角を変えます。
そのまま愛宕神社、青松寺の前を進んだ後、東へと方角を変えます。
赤十字社で東と南に流れができ、南への流れは、芝大神宮、増上寺の大門前を横切り、古川(渋谷川)へと注ぎます。
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⑥虎ノ門ヒルズ森タワー
虎ノ門ヒルズは、森ビルがデベロッパーの港区虎ノ門・愛宕に所在する複合施設。
2014年竣工の「虎ノ門ヒルズ(森タワー)」を中心に、
北にオフィスを中心とした「虎ノ門ヒルズ ビジネスタワー」(2020年竣工)、
南に住宅を中心とした「虎ノ門ヒルズ レジデンシャルタワー」(2022年開業)、
西に、日比谷線の虎ノ門ヒルズ駅(2020年開業)と一体となる「虎ノ門ヒルズ ステーションタワー」(2023年7月竣工予定)で構成されます。
中核たる「虎ノ門ヒルズ(森タワー)」は、地上52階建て、高さ247mの超高層複合タワー。
立体道路制度を活用して環状2号線と一体的に建築した東京都との官民連携プロジェクトです。
ホテル「アンダーズ東京」、最高のオフィス、ホテルサービスを利用できる国際水準レジデンス、大規模カンファレンス施設、商業施設、約6,000m²のオープンスペースで構成。
桜川は、虎ノ門ヒルズ森タワーを北から南へと回り込んでいたようです。
参考)虎ノ門ヒルズ
⑦愛宕神社
愛宕神社は、慶長8(1603)年、徳川家康の命により建立されました。
防火神・火産霊命(ほむすびのみこと)を主祭神に祀っています。
その名が京都・愛宕山に由来すると考えられています。
愛宕神社の特徴は何よりその立地。
神社のある愛宕山は、標高約26mで東京低地(標高約5m)に浮かぶ孤島のようで非常に目立つ場所。
急峻な石段は、曲垣平九郎(まがきへいくろう)が乗馬で登ったという伝説があります。
曲垣は、江戸前期の馬術家で、高松藩の生駒高俊の家臣。
寛永11(1634)年、徳川家光の目の前で、愛宕山の石段を馬でのぼり、梅花の枝をとってきて賞賛されたと云います。
江戸の火災や関東大震災、空襲で社殿は被災しますが、戦後再建されています。
愛宕山には、大正14(1925)年に日本最初の正式放送所が設けられ、跡地には放送博物館・総合放送文化研究所があります。
古写真を見ると、愛宕神社前に桜川が流れていたことがうかがえます。
参考)愛宕神社
⑧青松寺
萬年山(ばんねんざん)青松寺(せいしょうじ)は、文明8(1476)年に太田道灌が、雲岡舜徳(うんこうしゅんとく)を開山として貝塚(千代田区の最高裁判所あたり)に創建。
慶長5(1600)年、徳川家康が江戸城外堀をつくる際に、愛宕山南に続く丘陵「含海山」と呼ばれる現在地へ移転したと云います。
江戸時代は総泉寺、泉岳寺とともに曹洞宗江戸三か寺の一つでした。
浅野、毛利、山内などの諸大名家の菩提所でもありました。
当時、山門前の愛宕下通りには櫻川が溜池から流れていました。
現在、昔の石橋が、境内に復興された桜川にかかっています。
かつての流路は境内より東寄りの外側と考えられます。
参考)青松寺
⑨日本赤十字本社ビル
青松寺を南へ進んだ桜川の流路は、東に逸れて日本赤十字社あたりに及んだとされます。
赤十字のそもそもですが、スイス実業家アンリ・デュナンの活動により生まれました。
彼は1859年のイタリア統一戦争で負傷者の救護活動にあたりました。
当時の様子を『ソルフェリーノの思い出』に著し「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。人間同士、その尊い生命は救われなければならない」と赤十字の誕生を実現しました(1901年に「第1回ノーベル平和賞」受賞)。
佐賀藩の佐野常民は、「適塾」の緒方洪庵から医術を学び、1867(慶応3)年にはパリ万博の派遣団に加わる機会を得て、赤十字の精神に触れました。
明治10(1877)年2月に西南戦争が勃発。
明治政府軍と薩摩軍の激しい戦闘状況に対し、佐野と大給恒の両元老院議官は、赤十字と同様の救護団体を作ろうと思い立ち奔走します。
征討総督・有栖川熾仁親王に、博愛社設立の趣意書を差し出し、救護活動を許可されました。
明治19(1886)年に日本政府がジュネーブ条約に加入すると、博愛社は翌明治20(1887)年に日本赤十字社と改称して現在に至ります。
現在の日本赤十字本社ビルは、建築家・黒川紀章による設計です。
1912年に明治期の建築家・妻木頼黄の設計によって建てられた旧館が老朽化し、取り壊しが決まった後、1977年に建設されました。
なんとなく桜川の流路を模したような庭園が。
参考)日本赤十字本社
⑩芝大神宮
芝大神宮は、天照皇大神・豊受皇大神を祭神とし、明治5(1872)年までは神明宮と呼んでいました。
寛弘2(1005)年に一条天皇の勅命により伊勢の内外両宮の神を勧請し創建したと云います。
中世より知られ源頼朝の寄進を受けたほか、江戸時代には徳川家康の寄進を受け、江戸下町の大産土神として知られました。
もともと武蔵国豊島郡日比谷郷飯倉庄、あるいは増上寺山際の飯倉山にあったとされますが、慶長年間(1596〜1615)に現在地に移転。
神主は西東氏が勤め、幕府の連歌師も兼任しています。
境内および門前地は江戸有数の盛り場で知られていました。
境内では、宮芝居(神社の祭礼のとき境内で興行する芝居)や勧進相撲、富籤が催され、文化2(1805)年には、力士と町火消との間で「め組の喧嘩」が起きています。
料理茶屋(料亭)や水茶屋(湯茶などを供して休息できる茶屋)、土弓場(遊戯として弓を引かせる遊び場。楊弓場・矢場)なども立ち並び、岡場所(非公認の遊廓)としても知られました。
祭礼は、9月16日を中心に11日から21日までと長期間に及んだことから「だらだら祭」(めくされ祭・生姜祭)。
付近には風情ある建物が残っています。
参考)芝大神宮
⑪大門
芝大門は、増上寺の門前町として発展した場所であり、増上寺の大門に由来して町名が付けられたと云います。
二代広重が描いた名所図会に、桜川が描かれています。
⑫古川(桜川吐水口)
大門から南へと桜川の流路を追っていくと、古川と合流します。
古川は、新宿区・渋谷区・港区を流れる東京都の二級河川(新堀川・赤羽根川・金杉川とも)。
江戸時代渋谷村に多くかかるため上流は、渋谷川と呼ばれました。
現在では、港区南麻布四丁目・渋谷区恵比寿二丁目を境に上流を「渋谷川」、下流を「古川」としています。
信濃高遠藩・内藤家下屋敷(新宿区新宿御苑)の湧水と、四谷大木戸(新宿区)辺りで分岐する玉川上水の余水を水源とし、蛇が池(親川・竜川・笄川・広尾川とも)の水や、宇田川、桜川などの支流が合流しています。
桜川からの水は流れていませんでしたが、吐水口を確認することができます。
📕東京散策のおともに
⑬芝丸山古墳
武蔵野台地東縁、愛宕山から南西に延びる台地の先端に古墳群がありました。
円墳群は台地ごと削平され、現在は前方後円墳の芝丸山古墳のみが残ります。
築造は5世紀中頃過ぎとみられ、墳丘長125mという都内では最大級の規模。
古墳の頂上は標高22mほどで、後円墳は北北東を向いています。
江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたと云います。
登る途中に円山稲荷や、古墳上には伊能忠敬側地遺功表があります。
参考)芝丸山古墳
⑭増上寺
浄土宗の大本山。
酉誉聖聡(ゆうよしょうそう。千葉氏胤の次男)が、豊島郡貝塚(千代田区)にあった真言宗寺院の光明寺を改宗して、増上寺と改め創建。
徳川家康は、三河の浄土宗大樹寺(愛知県岡崎市)を菩提寺としており、天正18(1590)年の関東入部と同時に、同宗の増上寺を菩提寺としました。
慶長7(1613)年に浄土宗の関東十八檀林が制定されるとその首座となり、さらに僧録所として宗学宗制の統轄も行い、関東浄土宗総本山として隆盛しました。
東叡山・寛永寺と並ぶ江戸の巨刹で、将軍や武家のみならず庶民の信仰も集め、催される行事は参詣の人々で大いに賑わいました。
徳川家の霊廟・墓所は13基にのぼります。
将軍は台徳院(2代秀忠)・文昭院(6代家宣)・有章院(7代家継)・惇信院(9代家重)・慎徳院(12代家慶)・昭徳院(14代家茂)の6基。
ほかに崇源院(秀忠夫人)・桂昌院(五代将軍綱吉生母)・清揚院(家宣父)・天英院(家宣夫人)・月光院(家継生母)・広大院(11代将軍家斉夫人)・静寛院(家茂夫人・和宮)。
増上寺を写真に納めるとき、借景に東京タワーが写り込みます。
しかし、最近では麻布台ヒルズ森タワーも写り込むようになりました。
江戸時代から昭和、令和の建物が交錯する魅力的な場所です。
参考)増上寺
⑮紅葉谷
東京タワーがある台地と、増上寺や芝丸山古墳がある台地との間にある「紅葉谷」。
芝公園の一角に設けられた人工の渓谷です。
しかしかつて天然の滝があったと云います。
紅葉滝がつくられたのは明治39(1906)年。
設計を手がけたのは、明治から大正にかけて活躍した造園家・長岡安平(ながおかやすへい)。
日本人初のランドスケープデザイナーの一人です。
参考)紅葉谷
⑯東京タワー
東京タワー(日本電波塔)は、港区芝公園にある総合電波塔にして、東京のシンボル。
昭和33(1958)年に竣工し、高さは333m。
地上125mと223.55mに展望台を有するトラス構造。
自立式鉄塔では、東京スカイツリーに抜かれるまでの約51年間は日本一の高さでした。
創設者は、前田久吉(『日本工業新聞』(現在の産経新聞 )を創業。元参議院議員)。
設計は、内藤多仲(名古屋テレビ塔、二代目通天閣なども設計)が手掛けました。
赤と白のツートンカラーは、実は「インターナショナルオレンジ」と「白」の2色です。
一定の高さ以上の建物には、この色を用いなければいけないという航空法の定めによるものです。
参考)東京タワー
■ 歩き終えて
今回は虎ノ門周辺をご紹介しました。
江戸城の総構の仕上げとして築かれた江戸城外堀の石垣。
溜池から分流し、現在は道路とオフィス街に、かすかな痕跡を残す桜川。
そして、東京のランドマークが立地する武蔵野台地の東縁高台。
いずれも現在進行形で再開発の進む、虎ノ門周辺エリアに潜む魅力です。
■ 行き方
虎ノ門駅(銀座線)からスタート
神谷町駅(日比谷線)でゴール