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はじめに
インバウンドにも大人気の日本の世界遺産、厳島神社をご紹介します。
✔︎ 最初の武家政権を築いた平清盛と厳島神社の関係とは?
✔︎ 西国の覇者である毛利元就と厳島の関係とは?
実際の旅行経験を踏まえ、厳島神社の魅力を見ていきます。
■厳島神社の概要
厳島神社は広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の弥山(みせん。標高535m)北麓にある。
式内社(名神大社)、安芸国一宮。
全国に約500社ある厳島神社の総本社。
祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」。
「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとする説がある。
神仏習合時代には、市杵島姫命は仏教の弁才天と習合し、神社は大願寺(「日本三大弁才天」の1つ。宝厳寺・竹生島神社(滋賀県・竹生島)、江島神社 (神奈川県・江の島)と並ぶ。)と一体化していた。
神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。
安芸の宮島は、日本三景の1つとして有名である(陸奥の松島、丹後の天橋立と並ぶ。)。
■登録基準
(i) 人間の創造的才能を表す傑作である。
(ⅱ) 建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(ⅳ) 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(ⅵ) 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
■厳島神社の歴史
推古天皇元年(593年)、豪族の佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、市杵島姫命を祀る社殿を創建したことに始まるとされる。
もともと、厳島の弥山山頂には巨石が多く、島そのものが「神の島」として御神体であり信仰対象でだった。
平安時代初期に、空海が弥山の山頂部に寺院を開いた。
平安時代中期の『延喜式神名帳』では、「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載され名神大社に列し、安芸国一宮とされた。
平安時代末期、神主・佐伯景弘と、安芸守・平清盛の結びつきが生まれる。
平清盛は、日宋貿易に力を入れており、その航路にあたる瀬戸内海の整備を行っていた。
厳島を「海上の守り神」とし、1168(仁安3)年に社殿を整備し、また平家一門の氏神とした。
社殿には寝殿造(平安時代に完成した貴族住宅の形式。寝殿建物を基点に、各方角に対称となる建物を設け、回廊で連結されるなど。)を神社建築に応用した。
だが、清盛の社殿は1207(承元元)年と1223(貞応2)年に火災に遭ってしまう。
現存する社殿の主要部は、1241(仁治2年)年に再建されたものである。
戦国時代となり、毛利元就は、1555(弘治元)年の厳島の戦いで勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き、大掛かりな社殿修復を行なった。
豊臣秀吉は、九州遠征の途上で厳島神社に参拝し、大経堂(現千畳閣)の造営を行なっている。
江戸時代には「厳島詣」が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わった。
明治維新後、明治新政府による神仏分離令によって、社殿の焼却が命じられた(廃仏毀釈)。
社殿の焼却は免れたものの、仏教的と考えられた社殿の彩色がすべて剥がし落とされて「白木造」に改められ、千木と鰹木が新設された。
だが、明治末に社殿が国宝に指定されたことを機に、廃仏毀釈で破壊された部分が明治末の大修理と大正の修理で復旧され、千木と鰹木も撤去された。
◉本社社殿
奥の本殿、祓殿(はらいでん)、拝殿、高舞台、平舞台と主要建造物が、海上の大鳥居と北に向かって、一直線で結ばれるように設計されている。
本社、客神社、廻廊など、海域部分に建つ建物の屋根はいずれも檜皮葺である。
本社本殿の屋根は、切妻造の正面・背面の両方を長く伸ばし、それを庇とした両流造り。
平舞台は、日本三舞台の1つとされる(残りは、四天王寺の石舞台、住吉大社の石舞台)。
祓殿の側面から、左右に屈折する廻廊(東廻廊、西廻廊)が伸び、対となる景観を形成している。
◉摂社客神社(まろうどじんじゃ)
東廻廊の途中、西を正面として建つ。
客神社も本社と同様に本殿・幣殿・拝殿・祓殿から成るが、社殿の規模は本社より小さい。
以上の建物の大部分は海域に建っており、満潮時には建物が海上に浮かんでいるように見える。
1223年の火災で焼失し、現存するのは1241年に再建されたもの。
◉能舞台
西廻廊の途中、本社拝殿の西方の海中に建つ。
切妻造、檜皮葺。
桁行・梁間とも1間。
橋掛と能楽屋を伴う。
1680(延宝8)年、広島藩主浅野綱長の寄進により建立された。
◉海上大鳥居
境内の沖合約200mの地に立つ。
現鳥居は明治8年(1875年)の再建である(現在のものは平清盛の造営時から8代目とされる)。
棟の高さ16.6メートル、柱間10.9メートルの、大型の木造両部鳥居(各主柱に2本ずつの控柱がつく)である。
主柱はクスノキの自然木で、控柱はスギ材である。
奈良の春日大社・敦賀の気比神宮の大鳥居とともに「日本三大鳥居」に数えられる。
扁額は有栖川宮熾仁親王の染筆で、沖側は「嚴嶋神社」、神社側は「伊都岐島神社」と記されている。
例祭である旧暦6月17日の「管絃祭」において、管絃船(御座船)が本社から地御前神社へ渡御する。
平清盛が始めたとされ、平安京の管絃遊び(池や川に船を浮かべ管絃を合奏する優雅な遊び)を神事に取り入れた。
日本三大船神事の一つ(残りは、大阪府の天神祭、島根県のホーランエンヤ)。
◉豊国神社本殿
豊臣秀吉が、僧恵瓊(えけい)に建立を命じた。
「千畳閣」の通称がある本瓦葺きの大建築で、もとは「大経堂」と称された。
857畳の大広間を持つ。
◉五重塔
1407(応永14)年の建立。檜皮葺。
日本の他の仏塔と同様、建築様式は和様を基調とする。
四隅の軒の強い反り、柱の粽(ちまき)、尾垂木の先端を三角形状に削る点など、細部に禅宗様の要素がみられ、折衷様式となっている。
◉多宝塔
大永3年(1523年)の建立。檜皮葺。
外観は和様、内装装飾には大仏様、禅宗様がみられる。
◉弥山原始林
古くからの神域の自然林。
1929年に天然記念物、1957年に特別保護区となる。
山頂に空海が修行した際の護摩の火を受け継ぐ「消えずの霊火」が残る。
■平清盛【1118(元永元)〜1181(治承5)年】
平安時代末期の日本の武将、公卿、棟梁。
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。
安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父忠盛と共に西国へと勢力を拡大するなかで、宮島の厳島神社を信仰するようになった。
保元の乱
仁平3年(1153年)、忠盛の死後に平氏一門の棟梁となる。
1156年(保元1年)皇位継承をめぐって対立していた鳥羽法皇が死ぬと、崇徳上皇は藤原頼長と結んで源為義・為朝・平忠正らの武士を招き、後白河天皇・関白藤原忠通を討とうとした。
しかし、後白河天皇方は、為義の子源義朝、忠正の甥の平清盛らの兵をもって上皇方を破り、崇徳上皇を讃岐に配流し、藤原頼長、源為義を討った(保元の乱)。
この乱は武士が中央政界に進出する契機となった。
平治の乱
その後1159(平治元)年後白河法皇をめぐって信西と藤原信頼とが反目。
信西は平清盛と結び、藤原信頼は源義朝と結んで対立した。
藤原信頼らは、平清盛の熊野参詣中に挙兵し、後白河法皇を幽閉、信西を殺した。
しかし帰京した平清盛により、藤原信頼は斬罪、源義朝は尾張で殺された(平治の乱)。
義朝の子頼朝も伊豆に流され源氏は衰退し、1167年に平清盛は武士として初めて太政大臣となった。
清盛、厳島神社の社殿を造営
平家一門の繁栄を願って発願された『平家納経』が、1164(長寛2)年9月、厳島神社に奉納された。
経典を筆写したのは平家の一族で、清盛・重盛・頼盛・教盛などが名を連ねそれぞれが一巻を分担する形で筆写している。
金箔や銀箔が撒かれ、題箋(だいせん)や軸首(じくしゅ)の金工細工があり、十二単衣の女性や極楽浄土が描かれている。
仁安3年(1168年)、清盛は厳島神社に今日のような海上社殿を造らせた。
同年2月7日に清盛は病に倒れ、3月に出家する。
病から回復した清盛は、福原に別荘・雪見御所を造営して、厳島神社の整備、日宋貿易の拡大に没頭する。
平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にした。
『平家物語』では義弟の時忠は「この一門にあらざる者は皆人非人なり」(「平家にあらずんば人にあらず」)と平家全盛を誇る。
平家への高まる不信
だが、清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つ。
安元2年(1176年)の建春門院の死を契機に、清盛と対立を深めていく。
治承元年(1177年)6月、鹿ケ谷の陰謀が起こる。
多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。
西光は処刑とし、藤原成親は備前国へ流罪、俊寛らは鬼界ヶ島に流罪にしたが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。
源平合戦の始まり
治承3年(1179年)11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行した。
治承三年の乱(1180-1185)である。
清盛は反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣を全て解任し、代わって親平氏的な公家を任官する。
後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。
後白河院政は完全に停止された。
治承4年(1180年)2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した(安徳天皇)。
安徳天皇の母は清盛の娘・徳子。
形式上は高倉上皇の院政であったが、実質は平氏の傀儡政権であった。
さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出した。
反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子・以仁王の挙兵であった。
計画は未然に発覚し、清盛の対策により、検非違使の藤原景高・伊藤忠綱が300騎の兵で追撃して、以仁王と源頼政らを討ち取った。
清盛は、有力寺社に囲まれて地勢的に不利な京都を放棄し、6月に一門の反対を押し切り、国際貿易港の大輪田泊(現在の兵庫県神戸市和田岬付近)を臨む地への遷都を目指して、福原行幸を強行する。
頼朝挙兵と平家滅亡
しかし、以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた源頼朝、武田信義を棟梁とする甲斐源氏、9月には信濃国において木曾義仲が挙兵する。
これに対して、清盛は、平維盛を総大将とした大軍を関東に派遣したが、富士川の戦いでは交戦をせずに撤退してしまった。
12月になると、清盛は平知盛・平資盛・藤原清綱らが率いる軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の山本義経・柏木義兼を打ち破って、近江の平定に成功する(近江攻防)。
次に標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺であった。
重衡を総大将とした大軍を南都に派遣、12月28日、興福寺・東大寺など南都の諸寺を焼き払った。
この南都焼討では数千もの市民を犠牲とし、大仏の殆どを焼失させる惨事となり、清盛自身も「仏敵」の汚名を着ることとなった
2月26日には平重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かうことが決めらた。
清盛は27日に病に倒れ、閏2月4日、鴨川東岸にある盛国の屋敷で死亡した(享年64)。
清盛の最期は、水風呂がお湯に変わってしまう程の高熱を発症し「あつち死にぞし給ける」と熱さに苦しみ亡くなったという。
寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いと篠原の戦いで平氏軍が壊滅した後、義仲軍の攻勢の前に都落ちする。
元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡した。
■毛利元就【1497(明応6)年〜1571(元亀2)年】
戦国時代の武将。
安芸国の吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町)主、毛利弘元(ひろもと)の二男。
のちに父が兄興元(おきもと)に郡山城を譲って、多治比猿掛(たじひさるがけ)城(安芸高田市吉田町)に隠退した際、それに従った。
興元とその子幸松丸(こうまつまる)が相次いで早世したため、1523年(大永3)重臣に推されて家督を継ぎ、吉田郡山城に入った。
大内・尼子両勢力の対立する状況のもとで、安芸における大内方の立場であった。
そのため、1540年(天文9)には尼子晴久の率いる大軍に城を囲まれたが撃退。
1550年に有力家臣の井上氏一族誅伐を契機に、家中支配権を確立した。
毛利両川体制の確立
もともと毛利氏と対等の関係にあった国衆とよばれる有力家臣の存在は、領国経営を困難にしていた。
そこで元就は、征服地の検地などを通じた知行制の整備、在地小領主層の家臣への取り立てによる軍事力基盤・在地支配体制の強化、官僚制機構を通じた行政支配の充実などを図った。
特徴的なのは、養子・婚姻による有力家臣との縁組政策である。
吉川家の養子となった二男の元春、小早川家の養子となった三男の隆景によって「毛利両川(りょうせん)」と呼ばれる体制を築いて、毛利氏一族だけでなく、有力家臣家の当主として領国経営を支えた。
大内義隆、家臣の陶晴賢に討たれる
天文20年(1551年)、大内義隆を家臣であった陶隆房(変後に晴賢に改名)が討ち取り、大内氏の実権を握った(大寧寺の変)。
毛利氏は長年大内氏に臣従していたが、陶の謀反に同調し、安芸国での義隆支持派の諸城を攻略した。
その後も、大内家督を継いだ大内義長と、実権を握った陶晴賢に従っていた。
元就、陶晴賢と袂を分つ
だが、天文23年(1554年)3月、石見三本松城(現在の津和野城)の吉見正頼が陶打倒を掲げて挙兵し、三本松城の戦いが発生。
大内・陶の軍勢は三本松城を包囲し、安芸の毛利元就にも参陣を呼びかけた。
しかし、5月に元就は大内義長・陶晴賢と決別(防芸引分(ぼうげいひきわけ)。周防国の大内・陶に対して安芸国の毛利が断交。)の上、大内・陶側の桜尾城など4城を攻略して、厳島を占領する。
また対決に備えて、厳島・広島湾周辺の諸城や毛利水軍の育成に力を入れる。
厳島の戦い、毛利氏の拡大
天文24年10月1日(1555年10月16日)に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行なわれた決戦が、厳島の戦いである。
この戦いで陶晴賢を失った大内氏と陶氏は急速に衰退した。
10月5日、毛利軍の本陣を小方(広島県大竹市)に移して周防長門への侵攻を開始(防長経略)。
弘治3年(1557年)、晴賢によって擁立されていた大内義長(大友宗麟の異母弟。義隆の甥)が勝山城にて自害に追い込まれ、大内氏は滅亡に至った。
大内氏の周防・長門を併合して大大名となった毛利氏は、博多と石見銀山の権益を狙って、九州の大友氏と山陰の尼子氏との抗争を開始する。
1566年(永禄9)には出雲月山富田城(島根県安来市)の尼子義久を降伏させ、1568年には大友氏攻撃の軍をおこすなど、領域は西は長門から東は備中・因幡まで10か国に及んだ。
元就は、1571(元亀2)年、吉田郡山城にて、嫡孫の毛利輝元、息子の小早川隆景らに看取られ息を引き取った。
享年75歳、老衰もしくは食道がんであったという。
元就死後、毛利輝元がその跡を継いだ。
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■参考文献・ご当地グッズなど
▲世界遺産検定の1級以上を目指す人のテキスト。網羅性が高く眺めるだけでも楽しめ、世界遺産から多くを学べる必携本です!
▲一家に1セットあるべきと考えてますが、旅行先の周辺世界遺産を調べるのにも便利です。
▲世界と日本の建築の歴史がヴィジュアル付きで概観できるのでパラパラめくるだけでも面白い。
▲人物史鉄板である人物叢書。中世史の五味文彦先生が描いた清盛です。
▲比較的新しい、悪人像を覆した清盛論の一冊です。
▲清盛の漫画。歴史が苦手な人には漫画から入るのがイメージがつきやすくておすすめです。
▲2022年現在の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」ですが、同時代を扱ったのは「平清盛」(2012年)。10年も前なんですね。
▲こちらは元就の漫画です。毛利元就を扱った書籍は意外と少ないので貴重です。
▲現地で手に入れた宮島学。広島大学の宮島学センターによる地域史で、清盛や元就、舞楽などの芸能、神仏分離、外国人が見た近代の宮島など。こういった地域密着の本はありがたいです。
▲いくらでも食べてしまうこし餡派。
▲しっとりした「生」もみじも、絶品です。
■実際に訪れてみて・・・
コロナ以前、多くの訪日外国人旅行客が安芸の宮島に集まっていました。
国内外問わず人気の世界遺産です。
厳島神社は、海上社殿ということもあり、潮の満ち引きによって、社殿周りの景色の変化を楽しめます。
弥山を借景に、海に迫り出す社殿の姿は、独特の美しい景観を見せてくれます。
定番の穴子と牡蠣の料理を楽しみ、お土産にもみじ饅頭を購入しました。
伝統工芸の宮島細工では、杓文字(しゃもじ)発祥の地ということで、そのシンボルとして世界一の大杓文字が飾られています。
弁財天の持つ琵琶に触発されたという言い伝えがあるようです。
平清盛は、現在の厳島神社の魅力的な景観の原型を築き上げました。
そして毛利元就にとっては、この厳島を舞台とした戦いが戦国大名としてのし上がる大きなきっかけとなりました。
両名とも厳島神社に関わった史上名高い人物ですが、最期の迎え方が正反対であったことは印象的です。
清盛にとっては絶頂期を脅かす存在が現れ、苦しみの中で最期を迎えたのに対して、元就は領国範囲を大きく広げたタイミングで、家族に看取られながら最期を迎えました。
厳島神社の歴史を、2人の歴史上の人物とあわせてご紹介いたしました。
最後まで、お読みいただきありがとうございます。